おやっさん(9)
皆さま、よいお年を・・・
(自分より強い人間の名前を挙げてみろ)
そんな男性の言葉に、あの美波さんが少し困り顔をしている。もともと口数が多い人でなく、弁が立つという印象もあまりない美波さんであるが、言葉に詰まった美波さんの姿も、私はこれまで見たことがなかった。
一体美波さんは、なんと答えるのだろう。私なんかが全く知らない人物の名でも口にするのだろうか。そんなことを考えた時、口を開いたのは男性の方だった。
「吉野洋服の仕事は一流だ。よく言われたよ。自分でもそう思ってたしね。店は小さいが、職人としての腕はどこにも誰にも負けちゃいない。そう思えることが、ずっと職人としての俺の誇りだったんだ」
「はい、柔気道の練習一つ見てても分かりました。吉野さんが努力家で、コツコツと積み重ねることのできる人であることは」
施術を続けながら、美波さんが相槌を打つ。
(自分より強い女性は?)
その質問に対する答えを探すことを、もう美波さんは止めたようだ。すなわち美波さんには、その答えがすぐには見つからないのだろう。
「自分は一流だ。誰にも負けない。自分で勝手にそう思い込めてりゃ十分と言えは十分だろう。それでもこの年になって、こんな体になって考える事がある。じゃあ、自分は一流の中のどの程度だったんだろうって。一流の中でもやっぱり一流なのか、それとも一流が集まりゃあ、意外と並み以下なのか」
男性のこの言葉はもちろん美波さんの耳に届いているはずだ。それでも美波さんは返事をしない。黙って施術を続けている。
「芝山美波の柔気道は、一流中の一流だよ。たぶんね。俺はそう信じている。師範だって、自分でもそう考えているだろう?そのことを世に証明したいと思ったことは、これまでに一度もなかったのかい?」
「それを、一体どうやって証明しろと?」
美波さんの施術は止まらない。小さな声の抑揚にも変化がない。
「それは俺にも分からない。でもね、確実なことが一つある」
「はい、なんでしょう、それは?」
「どんな技術も、どんな知識も知恵も、人が身に付けたあらゆるものは、いつの日か人はそれを手放すことになるってことさ。まだ知識や知恵はいいわな。紙や、今の世ならコンピュータにだって残すことができる。でも俺の職人技や師範の柔気道の技は、どうやって後世に残す?」
少しずつだが、男性の声に張りがなくなってきた。話すことに疲れてきたという訳ではなさそうだ。きっとあまりの心地よさに、すでに眠気が襲ってきているのだろう。
「吉野さんには、渉を始め、立派な跡継ぎ候補がいらっしゃるじゃないですか。私にだって、私の技を継いでくれる門下生がたくさんいます。なにせ世界に55万人いますから。門下生が」
そんな美波さんの言葉に、なぜか私は、タイで出会ったあの可愛らしい黒髪の少女、アーリアさんを思い出していた。今もきっとバンコクの道場で、後輩の指導に励んでいるのだろう。
「そうじゃない。つまらんだろう、それじゃ。俺のコピーになれなんて、渉たちに求めるつもりはない。渉たちは彼らのやり方で一流になりゃあいいんだよ。押し付けがましい十字架を後進に背負わせるのは間違っている」
「はぁ、それでは私達は、一体どうすればいいのでしょうねぇ」
美波さんの声色は穏やかだ。その間も男性の手を揉んでいる施術は、まるで淀む様子はない。
「所詮は俺たちの自己満足だよ。知るも知らぬも、やるもやらぬも、その人間の自由さ。ただね、あれだけの高みに達している師範の強さが、まるで世に知られていないってことが、門下生の一人としちゃあ、ちょいと残念に思えるだけだよ。まあ、死にかけの爺の戯言だよ。それほど気にする話じゃない」
「はい、覚えていたら覚えときます」
「師範には申し訳ないが、一気に眠気が来ちまった。俺が寝落ちしてしまったら、適当なところで切り上げて、帰って貰って構わないよ。で、今日のお代はどうすればいい?」
あっ、ここは私の番だ。
「あっ、今日の代金は、私が・・・」
慌てて二人の会話に割り込もうとする私を、美波さんが飽くまで静かな言葉で制する。
「吉野さん、今もお月謝振り込まれてますよね。もう半年以上も道場にお越し頂いてないのに。今日お返しするつもりで参りました。この半年間のお月謝」
「ああ、それなんだが、実は勝手なお願いがあってね。俺が死ぬまで、って言ってもそんな先の話じゃない。ほんの2か月か3か月だ。このまま月謝を納めさせてくれねぇかな」
「そんな、死ぬなんて縁起でもない・・・」
「いや、俺は近く死ぬ。それはもう決まっている未来だよ。貴方なら分かるだろ。でっ、俺は希代の武術家、芝山美波の門下生のままで死にたいんだよ」
その男性の言葉を境に訪れた圧倒的な沈黙。私なんかには口にすべき言葉が皆目見つからない。
「分かりました。では、今日の代金はお月謝の内数ということで。できるだけ長くお月謝を払って下さいね。あと30年くらい払って頂いても、全く私としては構いませんよ。もちろん、生きていて頂いてですけど」
ふっと男性の表情が緩む。そして目を閉じた。
「俺は眠るんで、適当なところで切り上げて貰っていいよ」
そんな男性の言葉を無視し、ベッドの周りを半周した美波さんは、眼を閉じたままの男性の左手を握っていた。




