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おやっさん(8)

マッサージ小説です。はい


「お久しぶりです。吉野さん」


美波さんの訪問に男性は驚きをまるで隠さない。隠せない驚きなのだろう。


「師範、どうしてこんなところに・・・」


たっぷりとした間を挟んで、どうにか男性はその言葉を口にした。


「うん、こちらの菊元さん、ああ、私の大切な友人なんだけど、この菊元さんから、吉野さんの肩凝りをぜひ解して欲しいって依頼があってね。でっ、やってきました。改めまして、整体シバヤマの芝山美波です。今日ほんじつは宜しくお願いします」


美波さんが現れた瞬間からビックリ顔だった男性の顔に、もうひとランク上のビックリが塗り重ねられた。


「いや、菊元さん、これは一体・・・」


私の胸元に飛んできた質問のボール。(これは一体?)と問われても。どう答えていいか私にもよく分らない。


「あっ、え~と、前にお邪魔した時に、肩こりがおつらいって言われてたから・・・その~~私なりにというか・・・私も肩こり持ちだったし・・・」


「いや、でも、どうしてそんな・・・」


(どうしてそんな)うん、(どうしてそんな)だろう。男性が困惑するのももっともだ。


「菊元さんも以前はひどい肩こりに悩んでいたんですよ。だから吉野さんの肩こりの辛さが自分事のように分るんでしょう。そんなことより、さぁ、始めましょうか」


言葉に詰まっている私を、美波さんがフォローしてくれた。美波さんがボリュームのある黒いダウンジャケットを脱ぐ。その下はいつもの黒いタンクトップ。細身であるが女性らしいボディラインが現れる。美波さんはダウンジャケットを丁寧にたたみ、おそらくは来客用であろう椅子の上に置いた。

ジーンズのポケットからヘアバンドを取り出して、腰まで達している黒髪を一か所で束ねる。一気に美波さんの顔が凛々しく引き締まる。

今も戸惑い顔の男性の様子にはまるで頓着しない。


「うつ伏せと仰向け、どっちが吉野さん的には楽ですか?」


ぐいぐいと主導権を握っていく美波さん。男性は答えるしかない状況だ。


「うつ伏せになるのは少し胸が苦しいかな。でも、凝りがひどいのは背中なんで・・・これは、ちょっと・・・」


「全く問題ありません。直接背中には触れませんから。では、そのまま仰向け状態で始めましょうか。じゃ、失礼します」


美波さんは毛布からはみ出ている男性の右足を手に取った。


「あっ、師範、貴方あなたがそんな汚いものを触っちゃいけねぇ」


慌てて男性が美波さんの施術を止めようとする。


「どうかお気遣いなく。それに、汚いものって、足に対して失礼ですよ。これまでの吉野さんの人生をずっと支えてくれていた大事なお御足みあしなのに」


そう言いながら美波さんは男性の太い右足人差し指を、(ぎゅ~)と引っ張った。


「おっ、おぉ~~」


男性が声を漏らす。私もこの美波さんの施術を受けた経験があるから分かる。

美波さんは足の指を引っ張ったり捻じったりすることで、腰や背中の筋肉を解すことができるのだ。


「どうですか、吉野さん。今どこの筋肉が一番引っ張られてる感覚がありますか?」


「あぁ、右の腰辺りが一気に伸ばされてる感覚だねぇ。こりゃ気持ちよい。いや、驚いた」


男性がとても気持ちよさそうに答える。そうでしょう、そうでしょう。それが美波さんのマッサージ術なのです。


「あれ、右の腰辺りで止まっちゃてますか。じゃあ、これならどうでしょう。背中まで伸びますか」


そう言いつつ、今度は右足薬指を美波さんが引っ張るや、男性の(おぉ~~)の声が一際大きくなった。


「おぉ~~~、右の背中から肩の辺りまでぐいぐいと効いてるねぇ。いや、驚いた」


男性が喉を伸ばし、とても気持ちよさげに感嘆の言葉を発する。


「吉野さん、足がとても冷たいですよ。血の循環が悪い証拠です。まずは血流を良くしましょう。骨格のバランスを整えることと血流を良くすることが、健康の第一歩です」


「いやいや、健康も何も、この通りの末期ガン患者でしてね」


ここで二人の間に、小さな笑い声が生じた。

男性に、自分が末期のガンであることを憂いている様子がない。美波さんも、その事を無責任に慰めたりしない。


美波さんが男性の両足の薬指をくりくりと捻じる。その度に男性が、小さく(おぉ~)と心地よさげに唸る。


「引っ張られる感覚が、こめかみまで上がってきた。こいつはホントにたまげたな」


男性が独り言のように呟く。実に気持ちよさそうだ。私まで何だか嬉しくなってくる。


「こめかみまで上がってきましたか。血流が良くなってきた証拠です。だいぶん足も温まってきましたよ。それじゃあ、そろそろ背中の凝りを解していきましょうね」


ぐりぐりと足の指を捻じっていた美波さんの手の動きが変化した。今度は薬指を引っ張たり緩めたりしている。


「ぐぉ~~~」


男性が唸り声を上げる。もちろん苦悶の声ではない。快楽の声だ。体を捩らせるほどの快感に、いま男性は浸っているのだろう。経験者の私には分かる。そして驚くことに、いま美波さんが触れているのは両足の薬指だけなのだ。

初めは真っ白だった男性の足に赤みが差している。

心なしか男性の顔色に朱が帯びてきたように感じる。それだけではない。何だかつるりとしたつやまでもにじみ出ている。その顔色だけを見れば、とても末期がんの患者とは思えない。


「どうですか?だいぶん背中、温まってきました?」


「ああ、どくどくと血が回ってるのが分るよ。ほんと、気持ちいい」


「じゃあ、このまま背中と腰の大きな筋肉を解しますね」


そう言った美波さんだが、触れているのは変わらず薬指だけなのだ。まるで私には施術がどう変わったのか分からない。

何度も(おぉ~)と快楽の声が男性の口から洩れる。何だか見ているこっちまでマッサージを受けている気持ちになる。


(背中と腰の筋肉を解す)と美波さんが言った頃から、10分程度の時間が経過した。男性の顔が赤々とし、そして額にうっすらと汗の玉が浮いていた。全く体を動かしていない男性の方が発汗している。そのことが私にはえらく不思議だった。


「次は手を預けて貰えます?」


男性の横に立ち位置を変えた美波さんが言う。

男性から特に声による返事はなかったが、信頼しきった様子で、美波さんに右手を差し出す。その右手を美波さんが握る。掌を親指で圧迫し始めた。力感はまるでない。


「それにしても、小さな手だな」


「はい?」


「世界最強かも知れない女性の手が、こんなに小さいなんて驚きだね、まったく」


ああ、確か前回会った時も、この男性は美波さんのことを、(もしかしたら世界最強の女かも知れない)なんて表現をした。


「そんな、私が世界最強だなんて、とんでもないですよ」


美波さんの言葉に抑揚はない。さらりと受け流すような返答をする。


「へぇ、じゃあ聞くがね、自分より強い人間の名前を、いま挙げれるかい?」


(えっ?)


思いのほか尖った男性の口調に、美波さんだけでなく、私までこのとき少し驚いた。



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― 新着の感想 ―
[一言] こんなふうに、出張のマッサージをしに来てくれる腕利きさんがいたら、いいなあ。 そこそこの規模の病院には理容師さんがいたりは、するのですけどね。
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