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おやっさん(7)

マッサージ小説に戻ります。


消毒液の匂いが濃く漂う病室で、私と男性はいま二人きりだ。何だか落ち着かない。

渉さんの勤める洋服店の社長だというこの男性と、初めて会ったのは2週間前のこと。

その日は渉さんと二人で、この病室を訪ねたのだが、今日は私一人だけ。渉さんは、どうしても今日中にやっつけなければいけない仕事が入ったらしい。


JRと市営バスを乗り継ぎ、尼ケ崎の自宅から病院までの所要時間は約1時間半。

私が病室の扉を開くや、とても優しそうな表情と声色で、この男性は私を迎えてくれた。

そのことによって、朝から張りつめていた心の緊張が、ほんの少し和らいだが、それでも、いまひどく緊張していることに変わりはない。


昼食は駅の構内にあった牛丼屋で済ませている。女一人で牛丼屋に入るのは、いささかの勇気が必要だったが、少し年配の女性が、すでに一人カウンターに座っており、この先客に勇気付けられ、私はそこで昼食を取ったのである。


私が入室してから数分の時間が経過した頃、私と同世代くらいのナースが、昼食が乗っていたと思われるお盆を回収しにきた。全ての皿に残飯の姿はなく、しっかり食事が取れる程度には、男性の体調がよいのだろうと推測できた。


「俺のエンディングドレスの方は、はかどってるかい?」


それを私に聞かれても、正直分からない。この男性、すなわち社長さんに関しての会話を、私と渉さんとはその後一度もしていない。


(社長さんの肩凝りを何とかしてあげたい。美波さんならできる)


あのハンバーグ店で、そんな言葉を口にした私に対しての渉さんの反応は、実に曖昧なものだった。喜んでくれる風でもなければ、そのことを非難したりもしない。

そのことにどんな意味があるのか、そんなところが渉さんにはよく理解できないようだ。

それもそうだろう。私自身が、どうしてここまで社長さんの体の凝りを解してあげたいと考えているのか、自分でもよく理解できないのだから。


(まあ、菊元さんがそう思うのなら・・・)


ついに渉さんはそう言ってくれたが、さっきまで(カナさん)と呼んでくれていた渉さんが、(菊元さん)と呼び方を変えたことは、ただの偶然なのか。正直その時の私の心は穏やかではなかった。


食事の後、渉さんと分れ、自宅に帰ってからも社長さんのことが頭を離れなかった。

何度かスマホを手に取り、美波さんの店の番号を液晶に表示するところまでしたが、結局その日、美波さんに連絡することはなかった。

翌日の日曜日、休日としては比較的早い時間に、私は目覚めた。

6時間強の睡眠時間の間に、私の心に、どんな変化が起こったのか分からない。分からないが、目覚めたその時には、何がなんでも美波さんの施術で、男性の肩凝りを解して貰おうと、完全に腹が決まっていたのである。


9時を回るまで、美波さんに連絡をすることを控えた。非常識な早朝の電話は迷惑だろうという判断なのだが、時が過ぎるのをひたすらに待った2時間弱は、とてもゆっくりと流れた時間だった。

店の代表番号をプッシュすると、わずか3回目のコール音で美波さんが電話を取ってくれた。美波さんのスマホの番号も、もちろん私は知っていたのだけれど、敢えて店の方に連絡を入れた。今回の依頼は、美波さん個人へのお願いではなく、整体シバヤマ店長さんへの仕事の依頼なのだから。


電話の最中、なんども私は、(もう少し頭を整理してから電話すればよかった)と後悔した。

それほどに私の状況説明は、纏まりのない幼稚な言葉の羅列になってしまったのだ。


「要するに、いま入院されている男性の肩凝りを、出張マッサージ形式で解して差し上げればいい訳ですね。でっ、日程のご希望は?」


美波さんがそう言葉に纏めてくれなければ、私の拙い説明は、さらに数分の時間を要したことだろう。


私の希望した一週間後の週末は、美波さんの都合がつかず、結果としてさらにその翌週、つまり今日ということになったのだ。

電話を置いたあと、そもそも美波さんの店が出張サービスに応じてくれるかどうかも確認しないまま、私は依頼の電話をしたことに気付く。

さらに電話の最中、一度も美波さんは施術を受ける相手が誰なのかも聞かなかった。

もちろんのこと、金額の話もしていない。

出張の間、美波さんは店を閉めなければならず、交通費もかかれば拘束時間も長くなるだろう。

私が美波さんの立場であったなら疑問に思うであろう点について、一切の質問はなかった。

敢えて問わなかったのか、そもそも美波さんとはそういう人なのか、私には分からなかった。


私と男性の取り留めない会話が10分を過ぎた頃、ちらりと私は壁に掛けられている丸時計で、今の時刻を確認した。13時23分。

その時、病室のすりガラスの向こう側で黒い人影が移動する気配があった。

ナースや患者ではあり得ない。そうであるなら黒い服装はあり得ないからだ。

すぐに病室のドアを小さく叩くノックの音がした。


「どうぞ」


男性の声は、病人のそれとは思えないほどに張りがあり、そして太かった。


「お邪魔します」


男性の声とは対照的な、細く、そして透明な声色。

ゆっくりと開いたドアの向こうに、濃いジーンズに黒いダウンチャケットを羽織った美波さんが立っていた。



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