おやっさん(6)
どうしていいか分からなくなってきました。
「さて、晩飯は何が食べたい?」
「えっ?」
稲美中央病院を出てから、車で走り始めて20分程度の時間、私と渉さんにはまるで会話がなかった。不意に話し掛けてきた渉さんの言葉が、私の耳には上手く入ってこなかったのだ。
このとき、私が考えていたのは、美波さんの、あの足の指一本を介したマッサージ術のこと。
男性の首筋や背中を触ったとき、素人の私にも、凝り固まった筋肉の存在が確認できた。
自分も酷い肩こり持ちだったので、よく分る。凝りが酷過ぎると、寝ている事すらもしんどいものなのだ。
「ちょっと菊元さん、いま何考えてたの?」
私の反応の曖昧さに、渉さんが苦言する。
「あ、ごめんなさい。ぼんやりとしてました」
「いや、ごめんごめん。あんな末期がんの患者の姿を見せられりゃ、誰だって少し気分が沈むよね。せっかくの週末なのに申し訳ない。でっ、そうする?」
えっ、どうするって・・・え~~と。
「私は・・・その~社長さんのために、一生懸命エンディングドレスを仕上げるしか・・・ないと思います。私は何もお手伝いできないですけど・・・」
「ちょっと、何言ってんの、菊元さん。そんな話じゃなくて、晩飯の話だよ。何が食べたいの?」
うわっ、やってしまった。そっちのお話?ダメ、おかしい。私も今どうかしている。
「いえ、私は、別に何でも・・・」
「う~~ん、いつもそうだね。菊元さんは」
へっ、いつもそうとは一体・・・
「何でもいい。何時でもいいってのが、一番質問した側としては辛いんだよ。もうお互い、そんな気を遣う間柄でもないんだから。菊元さんも自分の希望を正直に話して欲しいんだけどな。あっ、菊元さんって呼び方がよくないのかな。そうだな~~~」
ホントごめんなさい。いま私が考えていたのは、あの社長さんの背中の凝りを、どうにかできないかなって、美波さんならどうにかしてくれるんじゃないかって、そのことばかりを考えていました。
「よし、これから俺、菊元さんのことをカナさんって呼ぶことにする。俺の事も好きに呼べばいいし。ワタルでいいや、俺の方が年下だし。それと、俺に気を遣うの、これから無し。ということで、なにを食べたい?」
(別に何でも)
またもそう言いそうになった口を戒め、美波さんの施術から離れなかった脳みそを稼働させる。
「あ、それじゃ、ビックリのハンバーグで・・・」
「へぇ、カナさんもハンバーグが好きなんだ。うん、そうしよう」
別にハンバーグが食べたかった口でもなかった。というより、そもそもお腹がまるで空いていない。昔からそうなのだが、病院なんかで消毒液の匂いが服に沁み込んだりすると、その匂いが気になって、なぜか私はお腹が空かない性質なのだ。それでも、渉さんが大のハンバーグ好きであることを知っている私は、”THE 無難”を選択した訳である。
(自分の希望を正直に話して欲しい)
そんな渉さんの有難くて嬉しい要望を、結果的に初っ端から裏切った訳である。
もうもうと湯気を上げ、油のミストを激しく飛び散らしているハンバーグが目の前に置かれた時、それだけで、何だかもう胃がもたれそうだった。食欲が沸かない。でも、そのことを悟られるのに、何だか気が咎めて、まだ口の中が火傷しそうな程の熱々ハンバーグを、いつも以上の速さで口に運んだ。
渉さんはいつにも増して饒舌だ。よくしゃべる。普段から口数が少ない方ではないが、今日は意識して多くの言葉を発しているように思える。そんな渉さんの態度から感じるもの・・・上手く私には表現できない。
私に気を使っているかどうかと言えば、多少は気を使っているのだろう。
社長さんのエンディングドレスを任されたプレッシャーは、無い訳は無いのだろう。
でもそんな事以上に見え隠れする渉さんの奥底の心理。それは・・・悲痛。
言葉の選択が正しいかどうかはよく分らない。それでもニュアンスとしてはけっして大きく外してはいないそのワードが、いま渉さんの心の中で浮き沈みしているものの正体なのだ。
さっきから渉さんは、(美味い、美味い)と繰り返している。店内にいる人達は、きっと渉さんのことを、よく喋るハンバーグ好きの明るい青年だとでも思っていることだろう。
それでも私は分かっている。その姿は、というよりその心境は、いつもの渉さんのそれではない事を。
何かが私の中で膨らんでいく。少しずつ、少しずつ。それはほとんど私の喉元にまで達しているのだが、それの正体が、今もって私にはよく分っていない。
「うん、やっぱり美味い!」
この日、3回目か、4回目、またもそのワードを発した渉さんの言動が、私の喉のどこかにあった堰をぶち壊した。
「わたし、あの社長さんの肩凝りを、何とかしてあげたいです。美波さんなら、何とかしてくれると思います」
渉さんにとってみれば、まるで降って沸いたような内容であろう私の言葉に、口に運び掛けたハンバーグの塊が、宙で止まっていた。
ハンバーグの一塊を待っていた口が、お預けを命令されたように空いたままで動かなかった。




