おやっさん(3)
なかなかマッサージ小説に戻りません。まっ、いいか。楽しく書いてるし・・・
「女房をね、7年前に亡くしたんだ。子宝には恵まれなくてね。俺としては、女房を亡くしたその日が、最後の家族を亡くした日ということになった」
これは・・・少し重く、そして湿っぽいお話になる予感。
でも最初は少し偏屈なおっさんかと思っていた男性の話振りは、朴訥としているようで、なんだか穏やかだ。
「食い物から、酒の量から、会社の金のやり繰りまで、実際に手を動かす職人としての仕事以外、あらゆることを女房に任せきりだった。いま思えば、俺には過ぎた女房だったね。40年以上連れ添って、失うその日まで、そんな有難みにまるで気付けなかった。全く、不徳だよねぇ~」
遠くを見つめるようなその目が、少し寂しげで、同時になんだか温かい。やっぱり、規模の大小に関わらず、会社の社長さんになる人ってのは、総じてみな魅力のある人達なのだろう。
「女房を亡くしてからは、そりゃあ、がむしゃらさ。慣れない事務的な仕事だって、自分でやるしかない。まあ、多忙に自分を追い込む必要が、そのときの俺にはあったんだろう。多忙ってのは、人の心の隙間を埋めてくれる、一種の鎮痛剤みたいなものだから。がむしゃらにもがいてるうちは、多少の痛みが気にならない」
確かに。私も不意に将来の不安を抱いたり、自分って何者なんだろう?なんてネガ思考に陥るときってのは、決まってふと忙しさが収まった時だ。
私は黙って男性の言葉に耳を傾ける。それほど苦痛な時間ではない。
そんな私の反応を確かめ、男性が続ける。
「女房が逝ってから、1年くらい経った頃かな。何かの拍子で病院に行った時だよ。(少し痩せろ)って医者が言いやがった。かなりケタクソが悪かったが、確かに酒や飯の量が増えてたのは事実だったし、体重だって6~7キロは太った。あれだけ元気だった女房ですら、ポクっと逝っちまうんだから、俺も少しは健康に気を付けとかないと、死んだ女房も浮かばれないだろう・・・なんて思ってね・・・柄にもなく」
話ながら、男性は目線を病室の奥に置かれていた椅子に向けた。
たぶん、(座れ)ってことが言いたいのだろう。私は素直に従った。
「最初は晩飯の量を減らすところから始めた。次にちょっとだけ、酒を飲む頻度を減らした。たったそれだけで、あっさりと3キロくらいは体重が減ってね。」
(はい)
そんな相槌の代わりに、私は軽くあごを引いて、この男性の次の言葉を促す。
「調子に乗ってきて、次はランニング、いや、そんな大層なものでもねぇな。まあ、今風に言えば、ウォーキングかな。そんなこともやり始めてね。すぐに女房がまだ生きてた頃の体重には戻った」
ドキッ!私の体重も、緩やかな勾配とは言え、近年は明らかに右肩上がりである。
タイのビーチで、トップレス姿を人様に晒した時には、(絶対に痩せてやる)なんて、数カ月まえに誓ったことも、今しがたまですっかり忘れていた。
(今はまだ寒いし・・・夏になって汗でもかいたら、また痩せて元に戻るでしょ)なんて、自分を誤魔化しているのだ。
「体が軽く感じるようになると、何だか、少しくらい運動もしてみようか・・・なんて思い始めてね。球技なんかは駄目さ。一人じゃできないからね。それじゃあってことで、中学、高校とやってた柔道を、また軽くやってみるかって考えたんだが、意外と年寄りの面倒をみてくれる道場って、ないものでね。そりゃあ、道場側も、練習中に年寄りに怪我でもされちゃ、面倒だろうしね。そんな厄介は抱え込みたくないんだろう」
(柔道をされてたのですか。道理で立派な体格だと・・・)
そんな相槌を返しながら、男性の話の続きを聞く。
「でっ、芝山美波の柔心会に、ちょっと顔を出してみたのさ。全くの偶然でね。柔心会なんて聞いたこともなかったし、偶々(たまたま)道場の看板を見掛けたのか、何かで調べたのか、そんなことすらも忘れちまった」
「私も柔心会の練習は、一度だけ見たことがあります」
私の見た柔心会の練習とは、柔心会バンコク支部の練習風景なのだが、日本の道場での練習はどうなのだろう。やっぱり、少し違ったりするのだろうか。
「そこで初めて会ったのさ。あの芝山美波と」
タイの道場で見た美波さんの凛々しさが、鮮明に脳裏に蘇る。そのインパクトは、(こんなに格好いい女性が、この世にいたのか)、なんて感動する程だった。
「正式に入門しなくても、1回目は体験参加無料ってことだったんで、ちょっと気合が入っちまってね。高校を出てから一度も着たことがなかった柔道衣なんかも引っ張り出した。やる気満々ってやつさ。帯は当日の朝に、スポーツ用品店で白帯を買った」
「はい」
「初めは、健康のために少し体を動かそう。そんなのがきっかけだよ。それは間違いじゃない。でも、たぶんこの時、俺は舐めてたんだろうね。柔道と合気道を掛け合わせたみたいな“柔気道”なんて呼び名も、胡散臭すぎるだろ。朝の公園でやってる太極拳みたいな、爺さん婆さんの体操程度だろう。そんな風に思ってたよ」
私も美波さんと出会うまで、“柔気道”なんて言葉、聞いたこともなかった。
日本では愛好者が、さほど多いとは思えない太極拳なんかの方が、言葉としてはよく聞く。
「たしか練習は夕方の7時からだったと思うんだが、敢えて遅れて道場に入ってね。ほら、大抵の武道の道場なんて、やれ挨拶だの柔軟体操だのから始まるのが普通だからねぇ。そんなのが面倒くさかったのさ」
武道の武の字も知らないけど、何となく分かるような気がする。何だか、礼儀作法とかうるさそうだし。根性論だとか蔓延ってそうだし。
「8時前くらいに道場に入ったのかな。そこで見ちまったんだよ。芝山美波の乱取りをね。相手は、金髪のチャラチャラしたイケ好かない若造だった」
ここでちらりと社長さんが、何かを探るような視線を私に向けた。
社長さんの視線の変化の意味が、私にはよく理解できず、どのような反応もできない。
「金髪の若造がね、突っかかっていくのさ。背も低く、体の線も細い女に。それも全力でだ。俺だって喧嘩の一回や二回、十回や二十回、経験がある。荒っぽい時代に育った人間だからね。その人間が本気かどうかは、すぐに分かる。ありゃあ、本気で突っかかっていってた」
「それで、どうなったのでしょう?その乱取り」
「ふん、突っかかって行った回数分だけ、若造の方が空を飛んだよ。まるでアクション映画のシーンのようにね」
さもありなん。美波さんとは、そう言う人なのだ。私は深く、何度も頷く。
「投げ飛ばしている方が芝山美波。言うまでもなくね。でっ、投げ飛ばされてた若造が、渉だよ」
男性の話が、意外な方向に転がりだした。




