おやっさん(2)
連日の投稿。勢いです。
ここはとある病院の個室。
ベッドに横たわっているその人は、もともと恰幅が、とても良かった人なのだろう。四角い顔の骨格や、岩のようにゴツゴツとした拳の形から、そのことが想像できる。
だからこそ、顔を覆っている肉がごっそりと削げ、眼窩の形が浮き出ている今の姿が痛々しくてならない。太く、丸い手首に、点滴の注射針が刺さっている。
「えらく痩せて二枚目になったじゃないですか、おやっさん。今でもスナックの姉ちゃん達、しょっちゅう見舞いに来てんのか?」
「いくら別嬪に囲まれたって、酒が飲めねぇんじゃあ、まるで意味がねぇ」
二人とも語尾のところを、少し巻き舌風にしゃべる。だから、ちょっと柄が悪く聞こえてしまう。
渉さんと会話を交わしているのは、60代と思しき白髪の男性。体に掛けられた毛布からはみ出した素足が、ベッドの淵ぎりぎりに達している。立ち上がれば、かなり背の高い男性なのだろう。
「でっ、別嬪といやぁ、その横の別嬪さんはどちらさん?」
窪んだ眼窩から向けられた男性の視線に、私の体は軽く強張った。
「菊元と申します」
慇懃に頭を下げた私の言葉に被せるように、渉さんが言う。
「友達ですよ」
その一言に、特別なイントネーションの抑揚はなかった。
(へぇ~)という表情に変わる白髪の男性。
渉さんは、この男性のことを(おやっさん)と呼んだが、二人が実の親子でないことはすぐに分かる。では誰なのだろうと疑問を持つまでもなく、渉さんが答えを示してくれる。
「うちの洋服屋の社長」
ぼそりと一言。
「でっ、何しに来やがった?」
極めて短い言葉だったが、渉さんの最前の言葉は、この男性を紹介したものであったのは間違いない。会釈くらいあってもよさそうなものだが。それに(何しに来やがった)って言い方は、いくら何でも失礼というものだろう。車で1時間強の距離ってのは、決して近い距離じゃないのに。
「まあ、偶には、顔を見とこうと思ってね・・・」
「余計なお節介だな」
二人の交わす言葉のニュアンスを、どう捉えればいいのだろう。少し棘のあるワードを交換しつつも、ひどく不仲という印象は感じさせない。不仲な印象を与えない割には、どことなくお互いが、微妙な駆け引きを仕掛けているようにも思える。それほど仲の良くなかった親子が、久し振りに対面したりすると、こんな感じの奇妙なよそよそしさになってしまうのかも知れない。
「取って付けた挨拶は、そのくらいにしろ。そろそろ本題に入れや」
男性のこの催促を聞くや、キュッと渉さんの表情が引き締まった。呼吸一つ二つの間が生じる。
「何で、俺なんだ?」
「何で俺とは?」
「だから、何で俺なんだ?」
「何か不満かい?」
「不満とかじゃない。何で、次の社長が俺なのか、単純にそのことが俺には理解できないだけだよ」
この段になって、やっと私は二人の交わす言葉のやり取りの概要が、朧げに見えてきた。不謹慎な言い方だが、この渉さんの勤める洋服屋の社長だというこの男性の余命は、たぶんそれ程長くないだろう。頬がこけているとか、骨が浮き出ているとか、そんな外見以上に、どこか覚悟を決めたとか腹を据えたとか、そんな決意が、この男性の顔から滲んでくるのだ。
そして、次の社長に渉さんを自ら指名した。この私の推論は、たぶん当たっている。
それでも渉さんは若い。私より2つも下の27才だ。おそらく60才は超えているだろうこの男性の後継者としては、若すぎるように思える。その間の世代の人は、他にいないのだろうか。
「仁さんとか剛さんとか、俺なんかより人間のできた先輩がいるじゃないですか。なのになんで俺なんです?」
この渉さんの問いは、私の思った疑問そっくりそのままの内容だ。
「ああ、あの芝山美波の紹介だからだ。あれは・・・いい女だからな」
美波さんの名前が出てきたことに、少し私は驚いたが、相当の覚悟で発したであろう渉さんの問いを、そんな軽口でこの男性はいなそうとした。ここに到着するまでの車中、一人思い悩み、そしてそのことを懸命に私に対して隠そうとしていた渉さんの心中を思うや、私はこの男性に対して、少なからぬ怒りを感じた。
私の横に立つ渉さんが、感情を膨らませるのが分かった。
まさにそのタイミングで・・・
「お前が立派な職人だからだよ。そうじゃないと否定するなら、言い方を変えよう。お前には立派な職人になれる資質があるからだよ。」
何かを言おうとした渉さんの言葉を待たず、男性が続ける。
「吉野洋服の柱は職人だ。今じゃ売上の8割が仕入れた既製品だがね。金の勘定や仕入れ先との交渉や、量販店との付き合いだって、もちろん大事な仕事だ。それでも、吉野洋服のトップは職人でなきゃいけねぇ。だから、お前なんだよ。」
男性の言葉を聞くや、渉さんが黙り込む。納得したという感じではなく、反論したい内容を上手く言葉に変換できない。だから黙り込んでいる。そんな感じだ。
その時、渉さんの胸ポケットで携帯が震えた。その着信は、果たして渉さんを救ったのか、それとも邪魔をしたのか。
胸ポケットから携帯を取り出した渉さんが、液晶を確認する。すぐに出ようとはしない。
「仕事の電話だろ。出ろや」
電話に出ることをやや躊躇っている渉さんに、男性が声掛ける。しわがれた声。
やや間があって、(失礼)と短く口にし、渉さんが病室を出て行った。
狭い病室で私とその男性は二人きりになった。眼窩の奥から私を射てくる視線が鋭い。思わず背が震えそうになる。何かしらの言葉をいま発しなければ、その視線に飲み込まれてしまいそうだ。そして私は改めて言った。
「渉さんの友達で、菊元と申します」
「ふ~~ん」
深く頭を下げた私に対しての反応がそれだった。普通の感覚なら、実に失礼な対応というものだろう。でも、何故かこの男性の(ふ~~ん)には、よく理由の分からない温かさが感じられた。そのことに、少し私は驚く。
「わざわざご足労頂いて、申し訳ないね。ありがとう」
さっき渉さんに向けた悪態からは想像もできない丁寧な礼の言葉。決して皮肉で言っているのでもなさそうだ。ここで一旦会話が止まってしまった。少し居心地の悪い沈黙の時間。
「あっ、さっき、美波さんの名前が出てきましたが・・・」
居心地の悪さに耐えかねて、意図せずにそんな言葉が、私の口から転び出てしまった。
「へぇ、菊元さんも、柔心会の門下生かい?」
「あっ、いえ、私と美波さんは・・・その~~、美波さんのやってる整体の方の繋がりというか・・・その~~~」
完全に私はテンパっている。早く帰ってきて。渉さん。
「ああ、そう言えば、師範が小さな整体の店をやってるって噂は、どこかで聴いたことがあるな。何だかおかしな話だよなぁ。もしかすると、世界最強の女かも知れない人間が、小さな整体の店を一人でやってるってんだから。しかも、これが別嬪ときてる」
美波さんの強さは、私もこの目で見た。それでも(世界最強)って表現、これはちょっと尋常ではない。
「そんなに強いんですか、美波さん?」
うわ、何か喰い付いちゃった。でも、会話が無いよりは、いくらかはマシというものだろう。
「そりゃあ、もう・・・強いも強い。こう見えて、俺も若い頃はやんちゃもしたし、ガタイだっていい。柔道の黒帯も持ってる。年を喰ったとは言え、そんな俺が、あんな小さな女の子と組み合ったが最後、3秒と立っていられねぇ。いや、あれはホント、驚いたねぇ。もう5年、いや6年前か。まだ体が元気だった頃の話だよ」
蕾が弾けるのは、まだ当分先だろうと思われる窓から見える梅の木にちらちらと視線を泳がせながら、その男性は語り始めた。




