おやっさん(1)
新章すたーとです。
「申し訳ないけど、明日のデート、ちょっと予定変更できないかな?」
“デート”というワードに対して、もう私は妙な動揺をしたりはしない。
そんな表現が、割合にしっくりとする間柄に、私達2人の関係が、成り始めている事を実感できる今日この頃なのだ。電話でなら、少なくとも週に2回は彼と会話する。
受話器の向こう側の声は、あの渉さん。
去年の12月に一回、明けて1月に一回、私は渉さんとランチを一緒した。いずれも平日の昼休み。正午前に突然の電話があり、(いま三宮にいるんで、ランチご一緒しません?)ってな感じの、実に軽~い食事のお誘いに、私が二度とも応じた形になったのだ。
ちなみに彼、ウィークディの真っ昼間にほっつき歩いているのは、別に暇な訳ではないらしい。彼曰く、(洋服屋もずっと作業場に籠って仕事をしてる訳じゃない)とのことで、材料の仕入れやら、販売店との交渉やらで、意外と街中を出歩くことも多いようなのだ。
2月の中旬に、(タイ旅行のお土産を渡したい)という口実で、金曜日の夕方に会った時の食事が、2人で食べた最初の夕食。会う時間帯が、昼から夜に変わっただけで、一気に私の中でデート感が増した。
彼へのお土産はフランス海外メーカのメンズ腕時計。厳密に言えば、この腕時計はタイで購入したものではなく、日本に帰ってきてから、大手デパートで購入したものである。
美波さんとご一緒したタイ旅行で、ほとんどお金を使う事がなかった私は、旅行のための費用と考えていたお金で、これを買ったのだ。その金額はおよそ5万円。
私の金銭感覚に照らせば、決して安い買い物ではなかった。それでも彼には、お見合いの時に着用したワンピースとヒール、そしてゴルフウェアにミニスカートと、それでは到底効かない額のプレゼントを、これまで頂いているのだ。
そんなこともあって、私は思い切って、此度財布の紐を引き千切った訳である。
社交辞令もあるのだろうが、それでも渉さんはこのプレゼントを、私の期待以上に喜んでくれた。
(じゃあ、次は菊元さんがお休みの日に、ゆっくりと少しリッチな食事を楽しみましょう)って感じの口約束によって実現したその日が、実は明日だったりするのである。
(今度ぜひ・・・)
なんて言葉で始まるお誘いは、大抵の場合、その(今度)が来ることはないというのが私の持論なのだが、私と渉さんの場合は、そんな障害を意外とあっさりと越えることに成功したのである。
「何か都合が悪くなっちゃっいました?」
誰か他の人と会う約束でも入ってしまったのかと、変な勘繰りをしてしまい、そんな自分の心の狭さを自覚し、チクリと胸が自己嫌悪の針に痛んだ。
「いや、そうじゃなくて、明日一緒に来てもらいたいところがあるんだな。あまりデートには似つかわしい場所とは言えないんで、少し菊元さんに申し訳ないな~と思って・・・」
渉さんと一緒なら、そこが例え墓地であっても、私にはまるで異論はない。
墓地でお化けでも出ようものなら、これ幸いと、私は渉さんにしがみ付くだろう。
そんな乙女チックな自分の空想に、少し頬が熱っぽくなったりする。
ギリギリ20代、(おい、しっかりしろよ)って、なんだか自分でも思う。我ながら、実におぼこい。
「別に・・・私は・・・お任せします」
ほんと電話でよかった。顔が赤く火照っていることを、渉さんに気付かれなくて済むから。
渉さんの運転するシルバーのSUVが、街中からどんどん離れていく。方角としては北方向。山側へ、山側へ。
尼崎駅前まで迎えに来て貰い、彼の車に乗り込んでから、もう40分以上の時間が経過している。いまどこに向かっているのかを、私は訊けないでいる。私を少し臆病にしているのは、他でもない渉さんの表情が原因だ。決して怒っている様子ではない。何かに対して拗ねているようでもない。口数が極端に少ない訳でもない。姿、様子はいつもの渉さんとまるで変わらない。それでも何か違うと感じるのは、これはもう女の勘ってやつだ。なんだか抽象的な言い方になるけど、今日に関してはどこか影がある。そんな感じ。気のせいだと思って思えなくない、そんな微かな違和感。
初めは、もしかして正式な交際の申し入れをされるのかも知れないと、少し舞い上がり、いや実は、全くその逆かも知れないと恐々ともした。でもそれなら何も場所を変える必要はない。それでは一体なんだと言うのだろう。そんな思考の迷路も相まって、いま私はかなり臆病になっている。
(今日はどこに行くの?)
たったその一言を発することが、いまの私には果てしなく遠いのだ。
結局は渉さんがステアリングを握っていた1時間強の間、ほとんど私は自分から言葉を発することができなかった。緩やかな長い坂を登っていた車が県道から脇道に外れた。2台の車が行違うにも神経を使いそうな細道。そして私は路肩に立っていた白い標識に気付く。
(稲美市立中央病院 この先150m)
「あの・・・目的地ってもしかして・・・病院?」
数十分振りに私が発した声がそれ。
コクリと頷いた渉さんの表情に、僅かな悲痛が一瞬だけ現れたことを、私は見逃さなかった。




