美波店長とタイを旅行する(29)
やっとタイ旅行編完結です。
ボリボリボリボリと、先ほどからバストトップの辺りを、服の上から美波さんが指でカキカキしている。かなり頻繁に。
「菊元さん、乳首の辺り、痒くないですか?」
私は痒くないです。美波さんみたく、あれだけ南国の直射日光に直接おっぱい晒したら、痒くもなりますよ。そりゃあ。
「キン〇ンとかウナ〇―ワとかは、さすがに今回買ってないなぁ。ミスりました。私としたことが・・・」
うわっ、キン〇ンとかウナ〇―ワを乳首にって、それ、思い切り沁みそう。こっちまで痛くなってきそうです。
「ではそろそろ出国ゲートに向かいましょうか」
ここはタイ国スワンナプーム国際空港。時刻はフライト時刻まで1時間を切った、こちら時間の23時前。
一昨日、このスワンナプーム空港に降り立ってから、実はまだ丸二日程度しか時間が経っていないことが、私には信じられない感覚だった。
夕食をホテルのレストランで取り、これもホテル側で準備してもらったタクシーで、この空港までやってきたのが約40分前。
20分少々、いくつかの土産物屋を回り、すでにお土産は購入している。
美波さんに促された私は、待合室の椅子から立ち上がり、会社の人達のお土産用として買ったチョコレート5箱の入った紙袋を左手に、小さめの旅行バッグを右手にぶら下げる。
結局、このお土産代以外に、私はこの二日間、まるでお金を使うことがなかった。
それではあまりにも美波さんに申し訳なく、一度はいくらかのお金を手渡ししようとした私だったのだが、
(柔心会の経費で全部落ちますから。お気遣いなく)
ということで、美波さんは一切のお金を受け取らなかった。
私の水着やヒールの代金、そんなものが本当に経費として落ちるのだろうか。
総務部経理課に勤める私としては、看過できないところも多々見受けられるのだが。
お金を手渡すとしたら、今しかない。やっぱり、少しだけでも渡しておこうと思い直したとき、美波さんのスマホに着信があったようだ。マナーモードになっていたため、着信音はしなかったが、美波さんがジーンズのポケットから、それを取り出したのだ。
「あっ、ヤナギさんからです」
液晶画面を確認した美波さんが言った。
「はい、美波です。今回もお世話になりましたし、それからご迷惑もお掛けしました。はい、もうそろそろ出国ゲートに向かおうかと思ってます。えっ、いまヤナギさん、どちらですか?え、そうなの。あ、はいはい、じゃあ、一度外に出ます・・・はいはい、17番出口ですね。はいはい・・・後ほど、は~い」
どうやらヤナギさんが、この空港まで見送りにでも来てくれているらしい。17番出口と言えば、一昨日の深夜にヤナギさんと初めて会ったその場所のはずだ。
一度出国ゲートを通ってしまうと、もう外には出れない訳で、ホントぎりぎりセーフって感じ。
昨日の夜、パタヤ公園から逃げ出す際に、私が追い続けたヤナギさんの背中は、本当に頼りに思える広さだった。でも実際のヤナギさんの体は、がっちりした体躯とは言え、身長に関して言えば、163センチの私よりも低いくらいなのだ。
「ヤナギさんが見送りに来てくれているようです」
そのことは、電話の内容ですでに分かっている。それにしてもヤナギさんと言い、美波さんといい、世の中には、こんなにも面倒見のいい人達がいるなんて、私には驚きだ。
17番ゲートを出てすぐの所に、あの緑色のワゴン車が止まっていた。
車の外で立っているのは、ヤナギさんの他に2人。空港から洩れる灯りが浮き上がらせるシルエットが細い。あっ。
その2人は、あのアーリアさんと、昨晩63万バーツという大金を手にしたタイ人少女だった。
2人を観止めた美波さんが、本当に優しそうな顔をしてワゴン車に近づいていく。
2人はほぼ同時に、美波さんに向けて両手を丁寧に合して頭を下げた。
2人のやや後方にヤナギさんが立っている。穏やかな微笑。
「どうしてもこの二人が、美波さんに最後に会っておきたいっていうから・・・」
アーリアさんは、これ以上の笑顔が世に存在するのかと思える程の、満面の笑み。
そして若いタイ人少女は、なぜかとても緊張しているようだ。
美波さんの顔をちらりと見ては、すぐに視線を地に落とす。そして再び視線を上げ、何か言葉を発しようとして、また視線を落とす。
「自分の分と、弟たちの学費に使っても、まだたっぷり余ってしまって、残ったお金を返したいって言ってるけど・・・」
今も口籠っているタイ人少女に代わって、ヤナギさんがそう言った。
「じゃ、親孝行の足しにするか、それでも使い道がないって言うんなら、柔心会のバンコク支部に、寄付でもして下さいな。そう伝えて下さい。ヤナギさん」
「あいにく、そんな難しい内容を伝えられるほど、タイ語が堪能な訳じゃない」
「じゃ、アーリアさん、彼女に伝えて下さいな」
アーリアさんがタイ人少女の耳元で、まるでチンプンカンプンの言葉をかける。
その言葉を聴きつつ、タイ人少女が、またも両手を合わせ、深々と美波さんに頭を下げる。
このまま永久に起き上がってこないかと思えた深く永いタイ人少女のお辞儀が終わったときには、彼女の両眼が、たっぷりと湿っていた。
美波さんが歩み寄り、優しく彼女にハグする。
その光景に、なんだか私の眼まで、少し湿ってしまった。
ハグを解き、美波さんはアーリアさんに向き直る。
「アーリアさん、バンコク支部の指導、よろしくお願いしますね」
アーリアさんがにっこりと微笑む。その邪気の欠片も感じさせないアーリアさんの見せた笑顔は、昨日、美波さんと死闘を繰り広げたアーリアさんと、到底同一人物の顔とは思えなかった。
「美波さん、もうそろそろ・・・」
ちらりと腕時計を見たヤナギさんが言った。
「あっ、ホントだ。もうこんな時間。じゃあ、私達は行きますんで。皆さん、健康に気をつけて」
じつにあっさりと皆に背を向けた美波さんに向けて、タイ人少女が小さな声で、何か声を掛けた。彼女の生の声は、初めて聴いた気がする。
「ツギ、イツアエマスカ?カノジョ、ソウイッテマス」
アーリアさんがタイ人少女の言葉を日本語に変換する。
「さぁ~、次はいつかな~~」
誰に言うでもなく、美波さんが小さく呟いた。その間、ほんの少しだけ、美波さんの足が止まっていたが、それはごく僅かな時間だった。
私達は17番ゲートの入り口に向かって歩いていた。
ふと見上げた異国の空は、あまりにも黒すぎて眩しかった。




