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美波店長とタイを旅行する(27)

タイ旅行編、少し長すぎました。もう終わります。


右肩を下にしていた私が目を覚ましたとき、隣のベッドで重なるように眠っている美波さんとアーリアさんの姿が確認できた。

部屋の照明は落としてある。それでも二人の寝顔がはっきりと見えるので、すでに朝日は上り切っている時間なのだろう。

木目調の壁に埋め込まれている丸時計を見ると、時刻は9時を少しだけ回っていた。


昨晩、泥のように疲れ切った体を引きずるようにして、ホテルの部屋に私達は戻ってきた。

美波さんがヤナギさんにおごるはずだったマーボ豆腐は、また次の機会ということになった。大金を手にしたタイ人少女を、そのまま一人放り出す訳にはいかないという判断だ。そしてヤナギさんが、彼女を自宅まで車で届けるという事になったのだ。

元はヤナギさんの財布から出た1万バーツは、結果として63万バーツというお金となった。日本円にして約160万円。その金額は、タイ人の平均年収をはるかに上回る額だそうだ。

その63万バーツのうちの2万バーツをヤナギさんに返そうとした美波さんだったが、それをヤナギさんは、なぜか受け取らなかった。(それじゃあ)と言って美波さんが、自分の財布から5万円の日本札を抜いたが、これもヤナギさんは受け取らなかった。


「貸しって事でいい」


ぼそりとヤナギさんが言ったが、その朴訥としたセリフに、不満や怒りのようなものは一切含まれていなかった。昨夜、一度は本気で美波さんを叱りつけたヤナギさんであったが、その事が二人の関係に、何らかの亀裂を生じさせるようなことはないのだろう。二人のそんな関係が、私には少し羨ましかった。



(ばい菌が入るといけないから)


白人女の吐瀉物の匂いが残っている衣服も気にせず、部屋に戻るや美波さんは、洗面器に張ったお湯と、その日の朝に薬局で購入していた消毒液で、私の足を丁寧に洗ってくれた。

どうやら私は、公園の中を全力で走った際に、どこかで右足のヒールを無くしてしまったらしい。裸足で駆けたその右足の裏には、何か所かの切り傷があり、薄く血も滲んでいた。

絆創膏で傷口を塞ぎ、とても優しい所作で、これも薬局で買っていた真っ白な新品の包帯を、私の足に巻いてくれたのである。


(こんな有様なので、今日は私が先にシャワーを頂きますね)


美波さんはそう言って、吐瀉物に汚れた衣服を着たままで、バスルームに消えていった。

美波さんがバスルームに入っている間、私とアーリアさんの二人が部屋に残される格好となった。パタヤ公園へ向かう車内で、あれほど無邪気な性格を披露してくれたアーリアさんだったが、さすがに私と二人になるや、その口数は少なくなった。


(あの大男を投げ飛ばした技、凄かったですね)


私からそんな会話のきっかけを作ったのだが、その際のアーリアの拙い日本語による返信は曖昧だった。

美波さんが、体に白いバスタオルを巻いただけの姿でバスルームから出てくるや、入れ替わるように私もバスルームに入った。

たった今、美波さんが巻いてくれた包帯を濡らさぬよう、私はとても気を使いながら体を洗った。

私がバスルームから出ると、美波さんはバスタオル姿のままで、すでにベッドに横になっていた。目は閉じられている。美波さんが寝ているベッドの端っこに、ちょこんとアーリアさんが座っていた。とても心配そうな顔で美波さんを見つめている。


美波さんの肩辺りに、ぞっとするような青紫色のあざができていた。よくよく見ると肩だけではない。二の腕にも肘にも、たくさんの腫れや痣があった。

黄色い痣もあれば、こぶのように赤黒く腫れている箇所もある。

目尻には赤い血の筋があり、それが固まって一本の線になっていた。

その数々の傷をみて、あらためて美波さんが、今日危険なリングに立っていたことを再認識する。


「アーリアさんも、お風呂、入りますか?」


そんな私のゆっくりと話した言葉に、小さくアーリアさんは頷いた。その所作はとても慎ましく、18歳という実年齢より、遥かに若い少女に見えた。

アーリアさんがバスルームに入り、そして戻ってくるまでの、それほど長かったとは思えない時の間に、私もベッドに横たわるや、たちまち眠りに落ちてしまっていたらしい。

そして一度も目を覚ますことなく、9時を回った今に至る訳である。


尿意を催した私は、足音を立てぬよう注意を払い、トイレに向かう。包帯にくるまれた右足が、じくりと痛んだ。

私がトイレから出ると、ベッドの上で半身を起こした美波さんと目があった。

体に巻いていた白いバスタオルがはだけて、小振りなバストが覗いている。


「おはようございます」


「あ、おはようございます」


「昨日はお疲れ様でした」


「あ、美波さんこそ、お疲れ様でした」


「はい。疲れました」


似合わない言葉だと思った。でもその言葉通り、美波さんの顔には、濃い疲労の色がいまも浮かんでいる。そんな会話の間に、ごろりとアーリアさんが寝返りを打った。まだ目を覚ましていないようだ。

美波さんの視線が、包帯が巻かれた私の右足に向く。


「菊元さん、足のサイズは23.5でしたよね」


それは昨年の残暑厳しい初秋のこと。お見合いに臨む私のために、美波さんがお洒落なヒールを一足準備してくれたのだ。あれから、もう半年近い時間が流れている。にも拘わらず、そんな些細な情報を忘れずにいてくれたのだ。


「菊元さんは、アーリアさんと一緒に、朝のバイキングを食べに行って下さい。私はちょっと、菊元さんの靴を買ってきます。9時を過ぎてますから、たぶん商店街もやってるはずです。それまでは、少し小さいかも知れませんが、私の予備の履物を使って下さい。大丈夫です。水虫はありません」


美波さんらしいウィットではあるが、それでも声にいつものような張りが感じられない。

相当に疲れていることは事実のようだ。


(美波さんも、一緒に朝ごはん食べましょうよ)


そんなごく普通の誘いが、何故か今の私にはできない。その合間にも、もう美波さんは黄色い旅行バッグから、予備の履物を取り出していた。それは真っ白い綺麗なミュールだった。


(では、後ほど)


そう言い残して、美波さんが部屋の出口に向かっていく。

と、不意に立ち止まり、振り返った美波さん。


「そうそう、予定通り、お昼から、この近くのビーチで泳ぎましょう。せっかく水着も買ったことですから。では」


静かにドアを開き、静かに出て行った美波さんの背中が、何だか妙に小さく見えた。




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