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美波店長とタイを旅行する(26)

今回緊迫感を醸し出すことが最大の課題でした。さて、いかがでしょうか?


ヤナギさんが予想した通り、白人女が立ち上がることはなかった。

勝ち名乗りを受けた美波さんがリングを降りる前に、アーリアさんはすでに換金所の方向へ走り去っている。

観衆の怒号が、真冬の高波のように荒れ狂い、私達に降りかかっている。

ガタガタと脚が震え、そして止まらない。


リングに掛かっていた金属製のタラップを美波さんが下りると同時に、ヤナギさんが手にしていた大きなバスタオルを、美波さんの頭からすっぽりと被せた。


「走るよ!」


美波さんを抱きかかえるようにして、ヤナギさんが叫ぶ。そして走る。公園の出口方向へ。

両脚の震えを抑え込んで、いや、収まらないままの震えを抱え込んで、私も二人に続く。

怒号が津波のように、私達の後方から迫ってくる。立ち止まらない。一度立ち止まってしまうと、もう二度と走り出せない。恐怖に耐えられず、体が動かなくなるだろう。これほどまでの恐怖を、私はかつて味わったことがない。

人生で一度も実感したことのない具体的な“死”に対しての恐怖。その表現が、今の私には、まるで大袈裟ではない。いつしか私は、大声で泣き叫んでいた。泣き叫んだままに全力で走る。

ヤナギさんの背を追う。左脚が泥濘ぬかるみにはまった。跳ねた泥水が右脚のふくらはぎにかかる。生ぬるいその泥水の温度が、人の血の温度を連想させて、私に高い悲鳴を上げさせた。


「菊元さん、大丈夫ですか?」


呼吸を乱したヤナギさんの声。私は答えられない。答えられないままに、全力で走ることを続ける。

怒号をやや後方に置き去ったかと思えた時、私達のすぐ目の前で、男の叫び声が起こった。

二人の男が私たちの行く手に立ちふさがっている。その4つの憎悪に満ちた目が、暗がりの中に確認できた。私はまたも、この日何度目かの悲鳴を上げる。

私の悲鳴に重なったのが、人のなまの拳が、人の生の肉を打つ音。二人のうちの一人が、棒切れのように地に倒れる。ヤナギさんが殴ったのだ。まるで走る速度を落とさずに。一切の迷いがない突然の先手攻撃だった。


(一切の遠慮は不要)


先にヤナギさんがアーリアさんにかけた言葉を、私は思い出す。

やらねばやられる状況であることを、否が応でも再認識させられる。

しかし相手はもう一人。そう思った時、この男が宙を舞った。丸く、大きく。そして地に頭から落ちて動かなくなった。

上半身をバスタオルに包まれたままの美波さんが、この男を投げたのだ。

私達は前進を止めない。倒れた二人の男を飛び越えるように跨いて、私達は走り続けた。



「もうすぐ出口です。頑張って」


ひたすらにヤナギさんの背だけを見て走り続けていた私は、その声に反応し、前方を見る。果てしなく遠いと思えたゲートの輪郭が前方に浮かんでいる。

このとき、私たちの左側から、近づいてくる影があった。私達との距離は10メートル程度。移動が速い。全力で走っている私達と変わらない速度で近寄ってくる。また高声を上げそうになった私だったが、もう私の肺にはそんな空気は残っていなかった。(ごぅ)と音を立てて、湿った空気を肺に取り込む。眩暈めまいがして地球がぐるぐると回転している。今も両脚が地に付いている事が奇跡のように思える。


影がさらに近づく。その陰は、紺色のボストンバッグを脇に抱えたアーリアさんだった。その後ろに若いタイ人少女の姿が見える。彼女達も、私達と同じように、多くの人間を掻き分けて、ここまで走ってきたのだろう。

お互い走る速度を落とすことなく、私達は合流する。そしてゲートに向かってかたまりになって走る。


またも私たちの前に、一人の男が立つ。この男の体格はいい。

私達の中で、一番先頭を走っていたアーリアさんの体が伸び上がり、その腕が男の首辺りに絡みついた。

大男がクルンと宙に舞う。男の背中が地に落ちるよりも先に、私達はその場を走り抜ける。決して振り返らない。


もうどの位の時間、私達は走っているのだろう。2分、若しくは3分。全力の疾走。

右の足裏が熱い。焼けた鉄板に右足を乗せているかのようだ。それでも私は走る。

とうに心肺機能の限界を超えている。それでも私を走り続けさせているのは、もう目の前まで迫っている公園のゲートの姿。私達にとっての希望の門。


5人が塊になってゲートをくぐる。

ゲートの向こう側、距離にして20メートル位の位置に、緑色のワゴン車が止まっていた。

私達がここまで乗ってきた車だ。その車の脇で、タイ人運転手が懸命に両手を振っている。

私達は走る。全力の疾走。車のドアは空き放しになっている。


(パン、パン!)


後方から豆が破裂したような音を聞いたのは、その時だ。


「頭を低くして!!」


ヤナギさんの絶叫。私はもう悲鳴を吐き出すこともできない。

姿勢を低くして、それでも懸命に脚を前に運ぶ。今も空いているワゴン車のドア目指して。

5人が塊になって後部座席に飛び込んだ時には、タイ人運転手はすでに運転席に座っていた。


「GO.GO.GO~~~!!」


ヤナギさんの声に、タイ人運転手は返答しなかった。代わりにアクセルを全力で踏み込む。ワゴン車の後輪が、空回りしながら地を引っ掻くけたたましい音がなり、数舜遅れてワゴン車は強烈に加速した。



ようやくタイ人運転手がアクセルの踏み込みを緩めたのは、目抜き通りに入ってからしばらく走っての事だ。

3列シートの真ん中の列。本来なら3人が座るスペースに、運転手を除いた私達5人が、折り重なっていた。


じくじくと右足に痛む。私の右足は裸足だった。走っている最中に、きっと履物が脱げてしまったのだろう。そのことに気付いたのは、車に乗り込んで数分が経ってからだ。

狭い車内に異臭が薄く漂っている。鼻を突くその嫌な臭いは、美波さんの体から発せられている。白人女が吐瀉としゃしたものの匂いだ。走り出してから車の窓は全て全開にしてあるのだが、美波さんの衣服に沁み込んだその匂いは、いまも消えていない。



「レムトン・ホテル」


「カッポン」


ヤナギさんが行き先を告げたのは、私たちがゲートを全力で潜り抜けてから10分ほどの時間が経過したころだ。アーリアさんとタイ人少女の二人が、最後部の座席への移動していた。

アーリアさんは今も大きく膨らんだ紺色のボストンバッグを、両の腕にしっかりと抱え込んでいる。

目抜き通りを走る車の数はほどほどで、その流れは淀みない。すでに時刻はこちら時間で夜の11時を回っている。

私達にまるで会話はない。移動する密室での長すぎる沈黙。

そんな膠着を静かに揺さぶったのは、美波さんだった。


「ヤナギさん、いま、怒ってる?」


消え入るような小さな美波さんの声に対して、すぐにヤナギさんからの返答はない。


「やっぱり・・・怒ってるよね」


美波さんが繰り返す。


「大切な友人が、自分から危険に飛び込んだんだよ。命すら狙われかねない危険に。機嫌がいい訳なかろう!」


驚くほどのヤナギさんの剣幕に、私の体までが強張る。またも沈黙。

美波さんが首を垂れる。しょげ返った美波さんは、こんなにも華奢で小さい女性だったのかと思う。そう思える事が、不思議なようでもあり、同時に妙に腑に落ちる気もする。


「うん、ごめんなさい」


小さく、短い美波さんの謝罪。そして沈黙。悲しそうな美波さんの顔が、私のすぐ横にあった。


暗闇に浮かぶレムトンホテルの外観が微かに見えてきたころ、ぼそりと美波さんが呟いた。


「どうすればヤナギさん、機嫌直してくれるかな?私、そのためだったら、何だってするし・・・」


まるで高校生の拙い告白のように、美波さんがヤナギさんに問うた。

すぐにヤナギさんは答えない。代りに大きく息を吐くヤナギさん

そして・・・


「ホテルでマーボ豆腐をおごってもらうかな。心配し過ぎて、お腹が減った。50歳を過ぎてから、こんなに走ったのも初めてだし」


そのヤナギさんの穏やかな言葉に、固まっていた車内の空気が徐々に緩んでいく。


「あの~~、自分で言うのもなんだけど、私ほどの美女が何でもするって言ってるんだよ。ほかに要求はないのかなぁ。一晩自由にさせろとか、チョメチョメさせろとか・・・」


少し呆れたような表情に変わったヤナギさんが振り返る。車に乗り込んでから、初めてヤナギさんと美波さんの視線が合った。


「馬鹿」


冗談とも本気とも取れないヤナギさんの言葉は短かった。

今日という長い一日が、終わろうとしていることを、私は実感した。




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― 新着の感想 ―
[一言] 危なかったぁ。 やっぱり、大金が絡むと……。 人間って怖い。
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