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美波店長とタイを旅行する(25)

今回は渾身です。でも大好きな美波さんを悪者にしてしまいました。


鐘の音と同時に、白人女が躊躇なく前へ出てきた。その歩を進める勢いは、1ラウンド目を超えている。試合が始まったばかりの時は、その巨漢に似合わない慎重さを垣間見せた白人女であるが、もう迷いはきれいに去ったのだろう。

眼光に力がある。人が何かに確信を持った時、こんな目の輝きになる。社会に出てから、私はそんなことを学んだ。

先般美波さんは、軽く右手を前に出して白人女の前進を食い止めた。さて今回はどうするのだろうか。


先と同じく、またもや白人女の歩が止まった。しかしその止まり方は、1ラウンド目の時と少し違っていた。眼に戸惑いが浮かんでいる。その戸惑いを生じさせたのは、他でもない美波さんが取った構えなのだろう。


白人女が目の前に迫り、その長く太い腕が、いまにも美波さんに届く距離にまで迫った時、これまであごの辺りの高さに位置していた美波さんの両手が、だらりと下に降りたのだ。美波さんの顔もお腹も、防御するものが、まるで何もなくなってしまった。


(どうぞ好きに殴って下さい)


そうとでも言うようなその所作。そんな常識外れの美波さんの動きに、逆に白人女の前進が止まってしまったのだ。


(ドキンッ)と胸が高鳴る。同時に、自分でもよく分らないが、何か腑に落ちるものを感じる。両手をダラリと下げてしまった美波さんの、構えとは呼べないような構え。この形に何やら奇妙な安心感が得られるのだ。


(あっ)


そう、この両手を下げてしまった一見無防備に思えるこの姿勢こそ、先のアーリアさんやその彼氏と向き合った時の美波さんの姿勢そのものなのだ。どこにも緊張や気負いを感じさせない、まるで通勤に使うバスを待っているかのような自然な立ち姿。この立ち姿が、格闘技素人の私から見ても、美波さんにはしっくりと似合っているのだ。

両手を顔の前に置いて戦ったタイ人女性との試合。片手を空に泳がせていた1ラウンドの構え。それと比較して明らかに防御という観点では隙だらけ。それでも、この構えを取った時の美波さんは、きっとめちゃくちゃに強いのだ。


(そろそろ本気でいくよ)


構えとは呼べない構えだけで、美波さんはそう白人女にはっきりと告げたのだ。


美波さんの無言のメッセージを白人女が享受するのに、5~6秒の時間を要した。

(ぐぃっ)と顎を引き、ガードをこれまで以上に固めた白人女が、遂に前に出た。

迷いを切って投げ捨てたような覚悟が分かる。真っすぐに美波さんに向かう。

直線的で速い動きであったにも拘わらず、その白人女の前進が、私にはやけにゆっくりと感じた。時間というディメンジョンが私の中で歪んでいる。


すでにパンチの届く間合い。白人女が右の剛腕を唸らせる。(ガンガン)、(ゴンゴン)と背筋の凍るような音を、1ラウンド目に何度も起こしたその力強いパンチ。その度に美波さんの小さく細い体は、左右に、そして後方に大きく弾かれた。

またもや同じ光景が繰り返されるのかと、私が怯えた瞬間、とても軽快で乾いた音が鳴った。

(パンッ)って感じの、小さな風船が壊れるような音。

突然発生したその小さな音に驚いたかのように、白人女の前進が止まり、そして立ち尽くす。そこはほぼリングの中央。


何か起こったのか、決してリングから目を放した訳ではないのに、私には判らなかった。

最も音に近い位置にいた白人女すら、そのことが理解できていないようだ。


(さっきの乾いた音は、一体なに?)


そんな私をあざけるように、またも小さく乾いた同じ音。間違いなくリングの上で発生したその音に、今後は白人女が立ち尽くさなかった。構わず左のパンチを振るう。がっ、その時にはすでに美波さんは、白人女の遥か斜め後方に立っていた。また白人女が戸惑いの色を見せる。

一回目は、乾いたその音に驚いた。二回目は美波さんが瞬間移動でもしたかのように、眼前からいなくなったことに驚いた。

素人の推測だが、白人女がいまリングの上で見せているそのあからさまな動揺の理由は、きっとそんなところなのだろう。


「全く予備動作がない。しかも通常のボクシングにはない手を下ろした状態からのジャブ。あれは、さぞかわし辛いでしょう」


相変わらず固い表情のままで、それでも眼を輝かせて、そう口にしたのはヤナギさん。

ヤナギさんに視線を向けると、身を乗り出すような姿勢に変わっている。リングの上で起こっている事に対する興味が、徐々に緊張と緊迫を上回り始めているのかも知れない。


「それにしても、あんな高度なフリックジャブを美波さんが出せるなんて、全く予想してなかった」


“ジャブ”って単語は、どこかで聞いたことがある。よく職場でも、(ちょっとジャブを打ってみよう)なんて会話が交わされることがある。(探り)だとか(様子見)だとか、そんな意味なのかと私は思っていたが、どうも少し違うようだ。


「武術家としての美波さんに、これまでも最大級の評価をしていたつもりですが、それでも、まだ過小評価だったのかも知れません」


(パパンッ!)という音が、私の意識をまたリングに戻させる。

そこには後方に下がる白人女の姿があった。

下がる白人女を、美波さんの細い脚が追う。左脚。(トンッ)って感じに、軽く白人女の腹に当たる。それ程の迫力はなかった美波さんのキックで、白人女の体が“く”の字に折れた。

低くなった白人女の頭の位置と、美波さんの頭の位置が、同じ高さになった。

す~と美波さんが白人女に近寄る。親しい友人とハグするかのような、まるで敵意を感じさせない前進。

(トンッ)と、軽く美波さんの左手が白人女のお腹を打った。1ラウンドに見た眩暈めまいを起こしそうな迫力を宿した白人女のパンチと比べて、明らかに見劣りする軽いパンチ。

がっ、それでも数舜おいて、白人女の顔に苦悶が浮かび上がる。誰が見ても分かる。美波さんのまるで力感のない攻撃が、確実にダメージを与えている。

(コプッ)と白人女の顔が膨らんだように見えた。そして口から、透明の液体がほとばしり出た。その量は小さなコップ1杯分くらい。思い返せば、彼女はさっきまで酒をあおるように飲んでいた。彼女の口から出てきた液体は、たぶんその酒なのだろう。

白人女の膝が折れる。頭の位置がさらに下がっていく。


(あっ、倒れる)


私がそう思った矢先、美波さんが崩れていく白人の体を支えた。まるでお年寄りを介護するかのような優しさすら、その動作には感じられた。


(トンッ)


再び、美波さんの軽いパンチ。白人女のお腹へ。

白人女が息を吸い込むや、(ゴヒュ~ッ)という喘息をわずらった患者の呼吸のような音が鳴った。


「いま、自分が吐瀉としゃしたものを気管に吸い込んだね。あれば、地獄の苦しみでしょう。息ができない。そのタイミングを狙ったんでしょう。それにしても・・・」


ヤナギさんが声を震わせている。相当に興奮しているようだ。

その理由が私にはよく分っていない。美波さんが反撃を開始したことを喜んでいるのだろうか。いや、そんな感じにも見えない。


「美波さんは”スンケイ”も打てるのか。しかもグローブを着けた拳で・・・彼女は一体・・・」


スンケイ?何のことだか私には皆目だ。


寸勁すんけい、その起源は中国拳法だそうですが、極めて助走距離の短いパンチで相手にダメージを与える打ち方です。完全な脱力状態からインパクトの瞬間に、(ギュッ)と拳を握り込む。空手の高段者なら10センチくらいの助走があれば、相手の鎖骨にひびを入れるくらいの威力は出します。でもそれは、固い拳の骨を使うからこそできるのであって、柔らかいブローブを着けてそれをやるなんて、僕も聞いたことがない」


眼を濡らして説明をしてくれるヤナギさんの表情とリングの上の戦いとを、私は交互に見つめる。


(トンッ)


(スンケイ)なる軽く短いパンチ。遂に大きく白人女の体が落ちていく。それを美波さんが支える。そして、また(トン!)

白人女は顔を歪ませて、それでも倒れることができない。美波さんが、その都度、白人の体を支えるからだ。


間近で見ている私達には、それがはっきりと分かる。

憎々しいまでに自信に溢れていた白人の顔が、いまや恐怖に歪んでいることを。

眼と口から透明の液体が、いまも零れ落ちている。

白人女の口から吐瀉物が噴き出る度、その液体が美波さんの細い体を濡らしていく。


「これは・・・もう試合じゃない。美波さんの白人に対しての制裁だ」


苦いものを噛んだような表情で、ヤナギさんが言葉を吐き捨てる。


(トンッ)


その小さな美波さんのパンチは5回目か、それとも6回目か

また白人女が崩れようとした時、今度は美波さんはその体を支えなかった。

その代わりに、グイッと白人の体を右腕で横方向に押した。

右肩を下にして白人女が地に落ちていく。いよいよ体が地面と平行になるその時、ガラスに爪を立てたような、高い悲鳴が響いた。



レフェリーがダウンを宣告し、カウントを始める。

白人女は自分の右足首辺りを押さえて、今も甲高い声を発している。

美波さんは立っている。上半身を白人女が出した吐瀉物で濡らして。

白人女は倒れている。そしてレフェリーはカウントを数えている。

ならば白人女の方がダウンしているということなのだろう。

それを理解し、思わず私は叫んだ。


「そのまま、立つな~~~」


このまま白人が立たなければ、美波さんの勝ちだ。その結末を、私は心底期待する。


「いや、あれは立てない。絶対に」


私の高まったテンションを奪い取る様な冷たい声で、ヤナギさんが言った。


「倒れる瞬間、相手の足の甲を踏んで固定した。倒れた際に、ひどく足首を捻ったはずです。捻挫ならマシな方。悪ければ、靭帯が切れているかも知れません」


固く、どこか怖い声でヤナギさんが続けた。レフェリーのカウントが続く。


「菊元さん、そろそろ走る準備をお願いします」


そう言ったヤナギさんは、このとき何かに怒っていた。



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