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美波店長とタイを旅行する(24)

今日2話目の投稿です。調子いい。


「アーリアさん、早くさっきのお金で、美波さんの馬券に賭けてきてください」


ヤナギさんがかなり慌てている。慌てながら、それでも日本語があまり得意ではないアーリアさんを気遣い、ゆっくりと分り易い言葉を選んで話している。


「△%%$□!Hurry! Hurry up!!」


今度は少し離れた位置に立っていたワゴン車のタイ人運転さんに向けて、ヤナギさんが声を強く荒げた。温厚な感じで、いつも微笑を絶やさなかったヤナギさんが、こんな声を出すことがあるんだと驚くほどに、その語尾は強く激しかった。

タイ語と英語のちゃんぽんのその内容は、“Hurry up!”すなわち“急げ”以外の意味は、まるで私には判らない。


「カッポン!!」


すぐさま返答したタイ人運転手が走り出した。踵を返し公園の出口方向へ。


「あの~~、さっきの(そう言うことか)ってのは一体・・・」


ヤナギさんが何に怒って声を荒げたのか皆目分からない私は、相当に気を使って恐る恐る問うてみた。


「このローカルムエタイは庶民の娯楽の一つです。でもそれは、ムエタイ観戦を楽しんでいるんじゃない。ムエタイの試合を対象にした賭け事を楽しんでいるんです。いまテントに向かって移動している人は、いわゆる馬券を買いに行った人達です。2ラウンド開始直後までに買った馬券が有効になります」


ふ~~ん、という事は、いま大勢の人が馬券を買いに移動していったということですね。

でもこれまでの試合ではあそこまで一斉に人の群れが動きませんでした。


「そう、一斉に観戦者が馬券を買いに行った。たぶん白人の方に賭けるために。1ラウンドの内容を見て、これは固い勝負だと思った人達でしょう。もしかしたら有り金の全てを賭ける人もいるかも知れない。逆に言えば・・・」


逆に言えば、何でしょう?


「もし美波さんがこの試合に勝てば、それは大穴馬券ということです。とんでもないオッズが付くことになるかも知れない」


あっ、だから急いでアーリアさんに馬券を買いに行かせたと、そう言うことですか。


「そうです。1ラウンド目、美波さんの動きが悪いように感じたのは、観客の多くが相手側に金を賭けるように仕向けた彼女の演技だったのかも知れません」


そんなやり取りをヤナギさんと交わしている間に、アーリアさんが一枚の券を握りしめて戻ってきた。若い彼女が少し息を弾ませている。相当に急いで券を購入してきたのだろう。競馬や競艇や、そんな賭け事を一切やったことのない私には、馬券なるものを見たことがないが、それでも、そんなボロっちい紙が本当に有効なのって感じの一枚の小さな券だ。

そう言えば、アーリアさんが馬券を買いに行くのと同時に、どこかへ走っていったタイ人運転手がまだ帰ってきていない。彼は一体どこに行ってしまったのだろう。


(Hurry!)


かなり強い口調で、ヤナギさんは運転手さんを急がせた。

私は周囲を見渡す。運転手さんの姿は見られない。

その時、ちらりとヤナギさんが、私の足元を見た・・・ような気がした。

つられた私も、無意識に自分の足元を見ることになる。

私が履いているのは、歩きづらい程には高くなく、それでもカジュアル過ぎない踵の低いヒールである。今回の旅行に持ってきた唯一の履物だ。ベージュ色のそいつの踵が、湿った土の地面に浅く潜っている。


「菊元さん、少し走ることになるけど、その靴で大丈夫ですか?」


どうして走ることになるのか私には理解できないけれど、履き慣らしたローヒールではある。(大丈夫です)と答える。


私の答えにはあまり関心を示さず、ヤナギさんが再びゆっくりとアーリアさんに話しかける。ゆっくりとして、それでもどこか急いでいるヤナギさんの日本語。


「今から我々の取る行動について説明します。一度しか言わないですから、しっかり聴いて下さい。アーリアさん、いいですね」


小さくコクリとアーリアさんは頷いた。


「カー」


アーリアさんの一言は、(分かった)って意味なのだろう。そのあどけなさを残す顔が、少し強張っている。ヤナギさんの固い表情と声の意味を、おそらく理解できてはいまいが、それでも緊迫した状況であることは、空気で察したのだろう。まさに私もそうなのだ。吐き気を催すほど、とても緊張している。


「まず、美波さんが勝ったら、その馬券を急いでお金に替えてきて下さい。そして彼女を連れて、車に急いで戻ってください。車は分かりますよね。ここまで乗ってきた緑色の車です。ゲートを出たすぐの所に移動させています。お金を入れるのは、このバッグを使って下さい。かなりの量の札束になるはずですから」


(彼女)のところでヤナギさんは、今も地べたに座り込んでいるタイ人少女の方に、ちょっと視線を向けた。(このバッグ)のところで、それまで手にしていた紺色のボストンバッグをアーリアさんに手渡した。


「カー」


アーリアさんが真剣な眼差しのまま頷き、バッグを受け取る。


「そして、ここからが重要です。タイ人にしてみれば、とてつもない大金ですから、換金するところを見た人間の中には、それを奪おうとするやからがいるかも知れない。そんな奴らに万が一襲われたら、柔気道の技で倒して下さい。そのとき一切の遠慮は不要です」


そのヤナギさんの言葉を聴き、私の体を極度の緊張が支配した。少し収まっていた膝の震えが再発する。


「カー」


アーリアさんの黒くつぶらな瞳が座っていた。強く何かを決め込んだ覚悟が眼に宿っていた。

その時、唐突に聞いた2ラウンド開始のゴングの音に、私の背は強く震えた。



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