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美波店長とタイを旅行する(23)

またまた力作(?)となりました。


もう腹は決まっている。私は美波さんを信じる。根拠はない。(根拠が無いままに疑わざること)、それがすなわち“信じる”という事なのだろう。


白人女がたくましい上半身を揺すりながら美波さんに迫る。まるでゴツゴツした白い壁が迫ってくるかのよう。迫力という概念が具現化して匂いすら感じるようだ。

その時、(すぅ~)と美波さんの右手が空を泳いだ。ゆったりとした美波さんのその小さな所作だけで、白人女の前進がぴたりと止まった。先のタイ人少女との闘いで見せた強引さが影を潜めている。強く相手を警戒するような表情と慎重さ。


(あの白人、強いよ)


ヤナギさんの先般の言葉に実感が伴ってくる。この白人女は、自分より遥かに背が低く、体の線も細い美波さんを、決して侮っていないのだ。強者だから強者が分かるのかも知れない。美波さんの佇まいや小さく片手を動かしたその所作だけで、40分前に自らが叩きのめしたタイ人よりも、遥かに小柄な美波さんの方が強敵であることを、すでに悟っているのだ。


白人女が横にステップを踏む。先の試合の後半に見せた本気の動き。巨体に似合わず、その動きはとても軽やかだ。突き出された美波さんの右手が、その動きを追う。美波さんを中心に、リングの中央付近を丸く白人女が旋回する。白人女の顔と美波さんの右手の距離は4~50センチくらいか。白人女が軽やかにステップを踏んで立ち位置を変えても、丈夫な透明の棒がそこに存在するかの様に、その距離は全く変わらない。

白人女のステップのテンポが上がる。あたかもポップダンスを踊っているかのようなリズム。先のタイ人少女との闘いによる疲れやダメージなんかは、まるで感じられない。むしろ、手頃なウォーミングアップになったかのように、動き全体にリズムとキレがある。

美波さんはその白人女の動きに、体の向きを変えるだけで相手の攻撃を封じている。そんな風に見える。美波さんも白人女と同じく、今日リングに上がるのは2度目だ。終始涼やかな表情のまま戦った1戦目とは、美波さんの顔がまるで違っていた。


リングに上がる前の美波さんは、確かに怒っていた。その剥き出しだった怒りが、リングに上がるや否や、まるで感じなくなったのだ。冷たさすら感じる固い顔。人としての感情が消えてなくなったかのよう。

そして、怖い。白人女の纏うはっきりと目に見える迫力とはまるで質の違う凄み。

そんな事を考えて、不意に私は驚愕する。大好きな美波さんのことを、私は怖いといま感じているのだ。


(す~)とさらに前方に美波さんの右腕が伸びた。それまで横へ横へと移動していた白人女が、初めて後方に体を引いた。自分より20キロ以上も体重のある相手に、右手一本の緩やかな動きだけで、美波さんは後方に下がらせたのだ。


美波さんは攻め込まない。白人アマゾネスが今日初めて見せた弱気とも思える挙動に付け込まない。そんな自らの挙動に反応したのが、白人の方だった。後ろに下がるという弱気な動作。そうなってしまった自分自身の心理。それを認めることが許せなかったのだろうか。一気に白い顔が紅潮した。


眼前にある美波さんの右手を左手で払い、そして大きく踏み込んだ。力一杯の右のパンチ。

たった一発のパンチが美波さんの体を1メートルも後方に吹き飛ばした。厚いグローブの上からである。が、何なんだ、この理不尽さすら感じるそのパワー。先般の試合では全力を出していなかったのだろうか、彼女は。いや、それもそうだけど、それだけではない別の疑問。一体何なんだろう。この気持ち悪さ。


自らのパンチの威力が作り出した1メートルほどの空間を、さらに足を前に運んで白人女が潰していく。まるで迷いがなくなっている。

そして左右のパンチの連打。威力があって、回転も速い。その軌道も多様だ。

正面から、横から、そして上下から。美波さんは体を揺すったり、腕で防御したりと、この攻撃を防いでいる。それでも半分以上の攻撃は、空を切ることなく美波さんの体を捕えていた。

私の中に生じるさらなる違和感。その違和感の正体が私にはすぐに分からない。

今日、私が美波さんの戦いを見るのは4度目だ。初めが、アーリアさんの彼氏との乱取り。ヤナギさんが“とんでもなく高いレベルの戦い”と評したアーリアさんとの闘いが2回目。そして先般のタイ人選手とのムエタイルールでの試合。


アーリアさんもその彼氏も、美波さんに向けてパンチとキックを駆使して攻め立てた。先のタイ人女性に関しては、キックだけでも数十発の攻撃を放った。その大多数の攻撃を、美波さんはひらりひらりと躱していた。しかし、今・・・


(あっ)


違和感の正体に、この段になって私は気付く。美波さんが白人女の攻撃を躱していないのだ。白人女は巨体の割に動きが速い。それでも速さだけに限るなら、ずっとアーリアさんの方が速かった。そのアーリアさんのパンチやキックを華麗に躱し続けた優雅さが、いまリングの上で戦っている美波さんには無いのだ。腕や肩を使って直撃は免れているものの、その都度、バンバン、ガンガンと嫌な打撃音が響く。そして今、私達はリングのすぐ下に立っている。数10メートル離れて見ていたこれまでの戦いより、遥かに近い距離で、私はその暴力という名の音を聞いているのだ。


格闘技経験が全くない私には、人と人が戦うということが、どれくらいのエネルギーを消費するものなのか想像もできない。それでも4試合目。生半なまなかな消耗ではないのだろう。美波さんの動きが鈍い。遅い。とても嫌な予感がする。


(もしかして、美波さん、疲れている?)


一旦そんな懸念が立ち上がるや、私の中で不安が膨れ上がった。

美波さんは35才。もちろん人に依るだろうし、ほとんど運動らしい運動をしたことのない私と美波さんとは単純に比較できない。それでもまだ辛うじて20代の自分が、ここ数年は日々体力の衰えを感じ始めている。そして35才。常識に照らすと35才と言う年齢は、肉体的ピークをすでに通り過ぎている年齢なのだろう。


白人女がパンチ振るうと、美波さんが細い両の腕でこれをガードする。パンチを受けた美波さんの上半身が、上下左右に激しく揺れる。圧に押された美波さんが後方に下がり、いよいよロープが背に迫ったタイミングで、はらりと美波さんが横方向に逃げる。

十分な距離は確保できない。白人女の前進が間髪を置かないからだ。

美波さんが斜め後方に下がる。白人女が追従する。距離は開かない。今もパンチの射程距離。

白人女がパンチを振るう。美波さんの体に届く。重い打撃音。美波さんの体が大きくブレる。



「美波さん、疲れちゃってるんでしょうか?」


今も私の隣に立っているヤナギさんにそう問うたのは、ゴングがなってから2分以上経過した頃だろうか。素人目に見ても、この試合、明らかに美波さんが劣勢である。それでもすぐに倒されたり大怪我をしたりということはなさそうだ。さすがは芝山美波と言うところなのだろう。幾分か体の震えが収まってきた私は、ヤナギさんに話しかける僅かなゆとりができた訳である。


「疲れてない訳はないでしょう。攻めるよりも守る方が体力を消耗する。不思議な感じでしょうが、格闘技の真実です。何より体格差がある。これも肉体的なもの以上に、神経の消耗が尋常じゃないものです」


ヤナギさんにも格闘技経験があるようなのだが、だからこその正直なヤナギさんの感想なのだろう。安直に私を安心させてくれるような言葉を、ヤナギさんは軽々しく口にしない。


「美波さんの動きが少し悪いような気がします。気のせいならいいんですけど」


正直に答えを返してくれたヤナギさんに、私も正直に感想を述べた。

すぐにヤナギさんからの返答はない。腕を組んで、(う~~ん)って感じでリングを見上げている。ヤナギさんが質問に対して返答に間を置くことは珍しいことだ。特に答えを催促しようと思った訳ではないが、私はいつの間にかヤナギさんの方を向いていた。

その時、”ドカン”と一際に大きな打撃音を、私は片耳で聞いた。

驚いた私はリングに視線を戻す。

両腕を顔の前に交差した美波さんが、ロープに背を預けていた。

つい数秒前までは、目まぐるしく位置を変えながらも、ほぼリングの中央付近で美波さんと白人女は戦っていた。さっき耳にした打撃音は、おそらく白人女のパンチの音。その一発で、軽量の美波さんは、ロープを背負う位置にまで吹き飛ばされてしまったのだろう。

白人女が一気に距離を詰める。美波さんはロープを背負った位置から動かない。動けないのか。


(バカンッ!)と美波さんのお腹辺りで音がした。白人女の放ったお腹へのパンチ。タイ人女性が体を“く”の字に折り、苦悶の表情を見せたあのパンチだ。その苦痛に耐えられず、顔のガードを疎かにしたタイ人は、次の瞬間に顔面へのパンチで倒された。

そのシーンがフラッシュバックされ、私の胸の鼓動が一気に激しくなる。

隣のヤナギさんが身を乗り出すような仕草をした。それを私は視線の端っこに捕えた。

いま美波さんがピンチにあることが、そのヤナギさんの挙動からも分かる。


白人女がまたも前へ踏み込む。ロープを背にしている美波さんに向かって。まるで躊躇を感じさせない自信に満ちた動き。また私の胸が高く音を鳴らす。

そんな私の胸の鼓動に重なるように、ここで1ラウンド終了のゴングが鳴った。



「美波さん、大丈夫でしょうか?一方的に攻め込まれてる感じですけど」


不安いっぱいの心理で、私はすがるようにヤナギさんに問い掛ける。

その時、ぞろぞろと私たちの後方で大勢の人が移動する気配があった。

その向かう先はリングサイドに設営されている簡易テント。移動している人の数はざっくり30人、いやそれ以上。人の流れが続く。まだまだ増える。


「そうか、美波さん。そう言うことか」


私の問いには答えてくれず、得心したような表情で、ヤナギさんは独り言を小さく漏らした。



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