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美波店長とタイを旅行する(22)

今回大作です。


奥歯が噛み合わない。ガチガチと音を発している。膝がわらわらと震える。

寒い訳はない。すっかり日の落ちた今も、気温は30℃を下回っていない。

ねっとりと湿り気を含んだ雨季の空気が、重く体に纏わっている。


圧倒的な恐怖。人間の中枢神経を麻痺させるほどの、鈍く光る抜き身の放つ怖さそのもの。

いま私は生まれて初めて、そんな恐怖を味わっている。間近に見るリングとはこんなにも狭い空間だったのかと思う。そこは逃げ場のない四角いサバンナ。

僅かでも気を抜くと、あっという間に膝が崩れ、隣に立つヤナギさんに寄りかかりそうになってしまう。

その時、ぐいっとヤナギさんが、私の肘を支えてくれた。


「大丈夫?」


そんなヤナギさんの問い掛けに、私はまるで反応できない。できることなら、今すぐこの場から逃げ出したい。走って走って、ホテルに戻り、布団を頭から被って眠りたい。

そして目覚めたら、少し嫌な夢を見たんだと納得したい。


美波さんが向き合っている。すぐ目の前のリングの上で、あの白人アマゾネスと。

美波さん自身が、(あまりにも危険過ぎる)と表現した先の戦いより、さらに体格差があるのだ。おそらく体重差にして20キロ以上。

間近で見る白人の体は大きかった。二の腕の形状と太さは、とても女性のそれとは思えない。

その白い肉体からにじみ出てくる圧倒的威圧感に、私はさっきから体の震えが止まらないのだ。


「菊元さん、大丈夫?」


もう一度、同じ言葉をヤナギさんが掛けてくれた。

その質問に答える代わりに、私は別の問いをヤナギさんに返していた。


「美波さん、大丈夫ですよね。」


(芝山美波より強い女性は、そうそうこの世に存在しない)


美波さんの強さをそう表現したのは、他でもないヤナギさんだ。


(美波さんなら大丈夫)


そんな心強いヤナギさんの返事が、すぐさま返ってくることに私はすがりたい。しかし・・・


「正直、僕にも分らない」


それって期待していた答えと違う。その事に私は激しく動揺する。


「でも美波さんより強い女性はそうそういないんじゃなかったんですか?」


思わず出た言葉が固く尖っている。ヤナギさんに強く当たるのは筋違いも甚だしい。しかし、それでも、もしヤナギさんが2万バーツを美波さんに手渡しさえしなければ、こんな怖い事になってはいなかったのだ。



時は40分ほどさかのぼる。千バーツ紙幣20枚を受け取った美波さんは、その札束を二つに分けた。きっちり数えた訳ではない。手の感覚で真っ二つにした感じ。


「ヤナギさん、もう一つお願い。私に勝ったら、この1万バーツくれてやる。そう言ってあの白人アマゾネスと私の試合組んでもらえるかしら。相手さんや運営の人と交渉して」


そんな美波さんのとんでもない要望に対して、全くヤナギさんは驚かない。

予め、美波さんの言葉を予想していたかのようだ。ヤナギさんの返事を待たず、美波さんはアーリアさんに向き直った。

アーリアさんは、今も立ち上がることができず、土の地べたに座り込んで荒い呼吸をしている自分よりはいくらか若いであろうタイ人少女を、心配そうに見つめている。


「アーリアさん、そのに伝えて下さいな。私とあの白人との試合が組まれたら、私の方に、この1万バーツ、全額懸けなさいって」


お爺さんが日本人とは言え、日本語がネイティブ言語ではないアーリアさんに、ややゆっくりとした口調で、美波さんはそう言った。言葉の意味が通じたことは、アーリアさんの表情から読み取れる。それでもアーリアさんもヤナギさんと同じように、すぐには言葉を返さず、どんな行動も起こさない。しばしの膠着状態。10秒、30秒、そして1分。ついにアーリアさんが、美波さんから1000バーツ紙幣の束を受け取った。


「本気で言ってるの?」


昨晩空港で初めて会ってから、終始穏やかで微笑みを絶やさなかったヤナギさんの顔色と声色が変わっていた。


「もちろん」


昨晩、満面の笑みで挨拶のハグを交わした美波さんとヤナギさんが、まるでひどい口喧嘩をした直後の親子の様に、お互い厳しい顔をして睨み合っている。またも沈黙の時間。

数十秒に及ぶ沈黙の後、先に言葉を繋げたのはヤナギさんの方だった。


「釈迦に説法だろうけど、あの白人、強いよ」


「そんなこと判ってる。だからこそ・・・許せない」


「怒りに任せて戦うのは武道じゃない。ただの暴力だよ」


ヤナギさんの表情は固いままだったが、それでもやや語気を和らげて、諭すように言う。


美波さんが黙り込む。すぐに言葉を返さない。返せないでいるのだろう。

私には皆目分からない。何故に美波さんが、見ず知らずの若いタイ人女性のために自ら危険に飛び込もうとしているのかが。

その時、(ふっ)と美波さんの表情が和らいだ。意識していなければ気付かないような小さな変化。


「ヤナギさん、私達、出会ってから、どれくらいになるかな」


「僕がまだ西宮に所属してて、引退試合の前だったから、少なくとも5年以上になるかな」


ヤナギさんの返答は早い。早く、そしてストレートだ。相手の言葉の裏を探ったり、駆け引きをしたりと言う思考を経由しないため、結果そうなるのだろう。もちろん、それはヤナギさんと美波さんのお互いへの信頼によって成り立っている関係なのだろう。


「あのヤナギさんの引退試合。素直に感動した。いま思い返してもちょっと胸が熱くなるくらい」


「技術的にはレベルが低すぎるって酷評されたけど」


「そんなこと、私言ったっけ?それは失礼しました。昔の事とは言え」


僅か、ほんの僅かだけど、そんな会話を介した後、2人の間の緊張した空気が緩んだ気がした。


「こっちで偶然会った時にはびっくりしたし、こっちでもリングに上がってるって聞いて、もう一度びっくりした。あのマオイ君との試合、私がこれまで見た格闘技の試合の中で、間違いなしのベストバウトだった」


「・・・」


「格闘技や武道が、若い子達の成長を後押しできる可能性があるんだって、そんな事が分って、ほんと嬉しかった。それまで武術なんて、所詮人を傷付けるための技術と知識ってずっと思ってたから。だからこそ、その技を使って、若い子の将来を摘むような行為を、私は許せない」


(若い子の将来を摘む可能性のある行為)とは、先の白人と若いタイ人の娘との試合のことを意味しているのかも知れない。


「どうしてそんな年齢になってまで戦うんですか?そんな私の質問に対しての、ヤナギさんの答え、覚えてる?」


コクリと小さくヤナギさんがうなずいた。


「To be who I am. 自分が自分であるために・・・あの時のヤナギさんの答え、それと同じ。私は美波。芝山美波」


その美波さんの言葉の意味を、ヤナギさんがゆっくりと頭の中で咀嚼そしゃくしているようだ。真っすぐなその視線は、今も美波さんに向いている。

いま2人の脳裏をよぎっているは、2人がそれぞれ歩んだ5年間の歳月なのだろうか。

その時、くるりとヤナギさんがきびすを返し、そして向かった先はリングサイドに設置されていた簡易テントだった。軽くもなく、重くもない足取りだった。


ヤナギさんがテントの中で、何某なにがしかの会話をしていた時間は5分程度だったろう。次にヤナギさんは、今もリングの脇で大騒ぎしている一際ひときわに目立つ白人グループの方向に歩いて行った。テントから出てきた一人のタイ人男性が続いている。

グループの中に、先般タイ人少女を叩きのめしたあの女が確認できる。

この女が、ちらりとこちらに視線を向けた時、私は肌の温度が、一瞬にして下がった気がした。寒気を覚えるほどの怖い視線。美波さんを見て、そしてニヤリとした彼女が、右手の親指を立てた。


この瞬間、美波さんと白人アマゾネスとの試合が決まった。




「芝山美波は強いです。但し、それは柔気道の技術が十分に活かせる状況に於いてです。ムエタイのルールでは、彼女が身に付けている技術のほとんどが使えない」


だったらなぜ美波さんがリングに上がるのを阻止しなかったの?どうして2万バーツを手渡してしまったの?そんな不満と後悔が頭の中をぐるぐるするばかりで、まるで言葉としては出てこない。


「自分は芝山美波。彼女はそう言った。だったら、僕たちに今できるのは、芝山美波を信じることだけです。美波さんを信じましょう」


うん、分かっている。美波さんとは、そういう人なのだ。ああなってしまった美波さんを止められる人間は、きっとこの世に一人もいない。だったら信じて見守るだけ。

私の中でそんな覚悟が確立された時、鈍い金属音が響いた。

間近まぢかで聞くゴングの音は、冷たく、硬く、そして大きく私の鼓膜を震わした。




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― 新着の感想 ―
[一言] すごい、緊張感が伝わってきます。 芝山美波は、格闘家なのですね。 そして、主席師範なのですね。
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