美波店長とタイを旅行する(21)
やたらと筆が進み始めました。応援頂いております皆さまに感謝してます。
体格差に物を言わせて、白人アマゾネスが覆い被さるように、タイ人選手にパンチの雨を振り下ろしている。タイ人選手はあごを引き、大きなグローブで顔の前をガードしている。それでもガードし切れていない脳天の辺りを、しこたま叩かれている。ガンガンガンガン、音がここまで聞こえるほどに。
試合が始まってからしばらくは、タイ人女性も数発殴られるごとに、一発くらいキックを返していたのだけれど、今はもうそんな余裕がすっかりなくなったようだ。ひたすらに首をすくめた亀の様になっている。白人サイドのリング下が騒がしい。酒瓶を振り回し、中の液体を飛び散して喚き散らしている。
(あのタイ人選手、このままじゃ殺される)
私が心配性なだけではない。まるで誇張もしてない。それ程に一方的な展開。事実、私の横に立つ美波さんですら、身を乗り出す感じでリングから視線を外さない。武術専門家の眼から見ても、今リングの上で繰り広げられている女同士の戦いは、尋常ではない危険が孕まれているのだろう。
ゴングが鳴ってから2分程経過した頃だろうか。白人アマゾネスのパンチの力感が、少し弱まったように感じた。息も少し荒くなっている。今もどうにかタイ人選手は立っている。多分だけれど、白人アマゾネスが攻め疲れたのだ。このときタイ人選手がキックを一発だけ返した。思わず声を上げて応援したくなる。判官贔屓の性。やっぱり私は日本人だ。
試合が始まってからずっと、嫌な笑みが張り付いていた白人アマゾネスの表情が、ほんの少しだけ締まったものになった。でも決してタイ人選手が勢いを盛り返した訳じゃない。単純にアマゾネスの方が疲れただけなのだ。私にはそう見えた。
またまたタイ人がキックを出す。このキックが白人アマゾネスのお腹辺りを捕え、バチンと小気味いい音がした。
「ヨシ!」
思わず私は声を出してしまった。
キュッと白人アマゾネスの顔が引き締まる。
「う~~ん、まずいな」
ぼそっと私の横で美波さんが呟いた。えっ、まずいって何が?まさか美波さん、白人アマゾネスを応援してる訳じゃないですよね。
ちらりと美波さんを横目に見て、すぐにリングに視線を戻す。
白人アマゾネスの構えが気持ち変わっていた。前傾度合がやや強くなったようだ。
「白人の方、ちょっと本気になっちゃうかも」
そんな美波さんの予想を肯定するように、一気に白人アマゾネスが間合いを詰めた。
繰り出した攻撃はパンチ。それ自体はこれまでと変わらない。しかし打ち方が少し変わっていた。力強さは感じないが、一気にスピードが増した。連続した動きにリズムがある。あの大きな体で、こんな軽やかな動きができるのかと思える程に。
「強引に倒すことを止めて、テクニックを使い始めちゃったね。これはちょっと手の打ちようがないかも」
独り言のように美波さんが呟く。その懸念が正解であることを証明するように、白人アマゾネスの攻撃が、タイ人選手の体を正確に捕え始めていた。
(バクンッ!)とタイ人選手のお腹で音がした。お腹を白人のパンチが強く打ったのだ。タイ人選手の両腕は今も顔の前に合わさっているので、お腹の辺りは全くのノーガードだ。体が”く”の字に折れる。次は頭部へのパンチ。これも正面のガードの上からではなく、横から回して耳の辺りを叩いた。そしてまたお腹。思わず耳を塞ぎたくなる重たい暴力という名の炸裂音。
「ああ、ヤナギさん。どうだった?」
いつの間にかヤナギさんが駆け足で私達のところに戻ってきていたのだ。そして美波さんの問い。
「うん、どうも白人のほう、オランダ人らしいんだけど、彼女が“自分に勝ったら5000バーツやる。誰の挑戦でも受ける”みたいなことを言って、それであのタイ人の女の子が挑戦したみたいだね」
5000バーツとはここタイでは大金であるらしい。昨晩、マッサージさん達にチップとして渡した20バーツは、一般家庭の一日の食費に相当する金額だという事を、美波さんは教えてくれた。
「だからと言って、あの体格差、あまりに危険過ぎる」
美波さんの表情は真剣だ。さっきリングに上がっていた時も、アーリアさんとの乱取りの時でさえ、ここまでの強張った顔はしていなかった。
(ドスン!)
またリングのある方向から、重たい低音が聞こえた。
苦悶の表情のタイ人選手が、顔の前に置いていたグローブをお腹の辺りまで下げた。
「あっ、ダメ、我慢!」
あの芝山美波が、こんな声を出すのかと驚くほどの悲痛を感じる高声。
その声が数十メートル離れたリングに届く訳もなく、次の瞬間、白人アマゾネスの右のパンチが、タイ人選手の顔面を真正面から打ち抜いていた。
ドサリと立っている意思を放棄した肉の塊が床に落ちる残酷な音が聞こえた。
変わらぬ周囲の猥雑とは対照的に、私達だけはまるで通夜のような沈黙の中、惰性でテンモーパンの入ったカップを口に運んでいた。
オランダ白人アマゾネスにノックアウトされたタイ人女性は、自分の足でリングを降りることができなかった。この興行の運営側の人間と思しき数人の男性が、彼女を担いでリングから下ろした。その後、彼女がどうなったのか、どこに運ばれていったのか、そんなことを私達が知る余地もない。
その後、一切美波さんは言葉を発していない。私達にも発する言葉が見つからない。
5000バーツ。日本円に換算すると1万5千円弱のお金のために、一人の若いタイ人女性が、無謀とも思える戦いに身を晒した。一般家庭の200日以上分の食費。大金には違いない。それでも1万5千円のお金のために、命を懸けるような戦いに挑む日本人が果たしているだろうか。
余計な想像力が、無意味に活性化する。
あの若いタイ人女性の家庭はきっと裕福ではないのだろう。圧倒的な体力と戦闘力に3分近い時間を耐えた彼女の脳裏に浮かんでいたのは、いつもお腹を空かせている年の離れた兄弟達の顔。体の弱いお母さんが、今日も少し咳き込みながら、荒れた手で内職をしている。
発展途上国の悲しい一般家庭の実情。どんよりと心が沈む。重た過ぎる私達だけの沈黙。
それは全くの偶然だった。無言で食事を取る私たちの脇を、今しがたノックアウトされたタイ人女性の乗せたタンカが通り過ぎたのだ。赤く腫れあがったその顔は幼い。18才くらいかという私の予想は、高い方に読み違っていたようだ。
ドスンと乱暴に半ば強制的にタンカから彼女は下ろされた。
「ねぇ、ヤナギさん」
随分と久方振りに美波さんの声を聞いた気がする。
「ヤナギさん、いま財布にどれくらいお金入ってる?」
よく脈略の分からない美波さんの問いに、真正面から美波さんを見つめ返してヤナギさんが言う。
「たぶん2万バーツくらいは入ってると思うよ」
美波さんを見つめる視線と同じく、その答えも直球だった。質問の意図すらヤナギさんは問わない。
「絶対に返すから、その2万バーツ、今晩貸してくれないかな」
冷たく、そして固い美波さんの声だった。




