美波店長とタイを旅行する(17)
タイ旅行編が長編になってきてます。さてどうしようと思ってます。
(こんなものしか無いですが)と田原支部長が美波さんに手渡したのは、日本で言うA4サイズの紙一枚と見るからに安物と判る黒のボールペン。
(ありがとう)とこれらを受け取った美波さんが、一瞬何かを考え、(紙をもう一枚)と要求した。
受け取った紙を、いったん畳の上に置いた美波さんだったが、文字を書くには畳の上は具合が良くなかったらしい。田原支部長が私のために準備してくれていた机の上に、改めて二枚の紙を広げた。左手にペンを持つ。
美波さんが左利きであることを、このとき私は初めて知った。
美波さんの顔は真剣そのもの。先のアーリアさんとの乱取りの時に見せたような怖さこそ感じないが、緊張という意味では、むしろ今の方がしているようにさえ見える。
机に置かれた紙は縦長方向。ペンの動きを紙の上で止めたのはほんの一瞬。そして一気に美波さんはペンを走らせた。紙の右端から。
シノミヤ・アーリア殿
右の者、柔心会参段位を免許する。益々の精進を期待する。
柔気道連盟柔心会本部主席師範 芝山美波
シノミヤ・アーリア殿
右の者、柔心会バンコク支部師範に任ずる。後進の育成に尽力すべし。
柔気道連盟柔心会本部主席師範 芝山美波
美波さんが左利きであること。そしてとても達筆であったこと。また二つばかり、美波さんに関しての新しい情報を、私はこのたび得た。
一枚目に書いた紙をアーリアさんに手渡す美波さん。優しそうなんて表現がまるで言葉足らずと思える程に、その表情は優しそうだった。そして額に浮いて玉になっている汗が輝き、とても綺麗だ。
「芝山美波以来の10代での三段位昇段だ。そして柔心会最年少三段位記録を一年ほど更新。今のアーリアさんは19才で三段になった頃の私より、間違いなく強い」
そんな美波さんの言葉を、ぽかんと口を半開きにして田原支部長が聞いている。
「本部主席師範芝山美波のお墨付き。誰にも文句は言わせない。いいわよね、田原さん」
視線すらも送らず田原支部長にそう言いつつ、美波さんは2枚目の紙もアーリアさんに手渡した。
「アーリアさん、貴方、今日からこのバンコク支部の師範。毎月3000バーツくらいの指導員手当が本部から出るから、ちゃんと学費を払って、高校くらいは出ておきなさいな。それから偶には苦労かけたお母さんと洒落たレストランで食事でもなさい」
アーリアさんは、この美波さんの日本語がよく理解できていないようだ。(洒落た)なんて日本語は外国の人には確かに難しかろう。
その事に気付いた田原支部長がタイ語に変換する。
乾き始めていたアーリアさんの黒い瞳が、またも潤っていく。何だか私までまばたきの回数が増えてしまった。
「でも、アーリアさん。一つ嘘ついたでしょ」
美波さんから手渡された2枚の紙を、それはそれは大切そうに胸の前で持っていたアーリアさんが顔を上げる。
「柔気道が嫌いなんてウソウソ。嫌いな人間が、その若さであれ程の技を身に付けられる訳がない。柔気道、本当は好きなんでしょ」
ゆっくりと語った美波さんのその言葉は、今度は田原支部長の通訳なしでもちゃんとアーリアさんに伝わったようだ。
「ワタシ、オジイサン、ダイスキデシタ。オジイサン、ジュウキドウ、ダイスキデシタ。ジュウキドウ、オジイサンのカタミ。オジイサン、ワタシノナカデ、イマモ、イキテマス」
アーリさんの黒く大きな眼から、大粒の涙が溢れ出た。とてもとても綺麗だった。
道場生の乱取りが終わった。美波さんがある道場生を手招きする。
若く、可愛らしい黒髪の女の子。今日最初に美波さんが指導したあの眼の大きな女の子だ。
少し緊張した面持ちで、それでも眼を光らせて美波さんに小走りで寄ってくる。
「アーリアさん、まず師範として最初の仕事。彼女を強くしてあげなさいな」
アーリアさんと黒髪の女の子へ交互に向ける美波さんの眼は、ほんとに母親が娘達に向けるような愛情に満ち満ちていた。にこりと黒髪の女の子が、アーリアさんに対して微笑む。その笑みを受けたアーリアさんは、どこか戸惑ったような、少し困ったような表情になった。
その表情は、あどけないという表現がしっくりと来る程、とても初々しく可愛らしいものだった。




