美波店長とタイを旅行する(16)
連続投稿。初の試みです。
アーリアさんは、痛めたであろう右腕を、もう押さえてはいない。
それでも不規則に口から嗚咽が漏れている。黒く美しい大きな眼が濡れている。
他の道場生は、田原支部長の指示で乱取りを再開している。
涙目のアーリアさんを、美波さんが今も優し気な視線で見つめている。
ヤナギさんの表現を借りると、(とんでもなく高いレベル)であった美波さんとアーリアさんの乱取りが終わってから10分程度の時間が経過しているだろうか。その時間のほとんどを、田原支部長のアーリアさんについての説明が占めた。
この道場に顔を出すようになったのは、わずか半年前であること。
幼い頃から祖父である四宮文二氏から、柔気道の指導を受けていたらしいこと。
四宮文二氏、つまりアーリアさんのお爺さんが2年前に他界したこと。
この道場内で彼女と互角に戦える人間は、初めから一人もいなかったこと。
あまりにも彼女の実力が他の道場生から突出していたため、異例の早さであったがつい2カ月前に初段位、つまり黒帯を与えたこと。
美波さんと一戦交えた褐色青年とアーリアさんは、どうやら恋仲にあること。
「入門した当時から、あまり熱心な生徒ではなかったです。練習にも来たり来なかったりで。まあ、それも致し方ないですね。この道場に彼女以上の実力がある者がいないんですから、彼女にとっては頃のよい練習相手がいません。お恥ずかしい話ですが・・・」
美波さんには聞こえるように、アーリアさんには微妙に聞こえないように、田原支部長は相当に気を使って声のトーンを調整しながら、それらのことを美波さんに説明した。
「一か月くらい前です。急に彼女の練習態度が変わったのは。特に乱取りになると、それはもう鬼気迫るものがありまして。相手をした者のうち何人かは怪我もしています」
床に胡坐をかいた状態で、美波さんは田原支部長の声に黙って耳を傾けている。
「きっかけは、どうも主席師範のようです。どこからか主席師範が来られることを聞いたのでしょう。その時にはそれほど深い意味があるとは考えてなかったのですが、何度か主席師範がいつタイにくるのか質問されました、滅多に私に話しかけてくることなど無かったのですが」
「でっ、今日になって、アーリアさんの目的が、美波さんへの挑戦だったことを知ったと・・・まあ、そんなところですか」
そう田原支部長に言ったのはヤナギさんだった。
「まあ、そう言うことだと思います。主席師範の手を煩わせる羽目になりまして、なんと申し開きしていいか・・・」
白髪頭を低くして、こちらも胡坐をかいている田原支部長が美波さんに詫びた。
私達の作っている輪の中での会話が一旦途切れた。
道場生の乱取りは続いているが、どこか緊張感が途切れてしまっているようだ。皆の声と動きに活気がなくなっている。
「ワタシ・・・ジュウキドウ・・・ダイキライデス・・・」
注意していなければ聞き逃してしまいそうな、か細い声の主は、アーリアさんだった。
アーリアさんを見つめる美波さんの表情が、少し曇った。十分過ぎる程の優しさを残したままで。
「う~~ん、分からないな。どうして柔気道が嫌いなのかな、アーリアさん?」
ずっと俯いていたアーリアさんが、やっと今も濡れている黒い瞳を美波さんに向けた。
「オジイサン・・・トテモツヨカッタ。カオサイヨリ・・・ノックウィーヨリ、ズットズット」
美波さんが、問うようにヤナギさんに視線を向ける。
「カオサイ・ギャラクシーとノックウィー・デビィ。それぞれボクシングとムエタイの伝説の元チャンピオンで、この国の英雄たちですよ」
(なるほど)という表情になった美波さんが、すぐにアーリアさんの方を向く。
「アノヒトタチ、スゴクオカネモチ。オジイサン、オカネナカッタ。ワタシノカゾク、クロウバカリ。トクニ、オカアサン」
少し憐れむような表情に変わった田原支部長が補足する。
「この道場も、今から10年ほど前に四宮先生が私財を投げて建ててくれたものです」
「オジイサン、カゾクヨリ、ジュウキドウダイジダッタ。ミンナクロウシタ。ビンボウシタ」
一度は収まっていたアーリアさんの嗚咽が、再び言葉の合間に挟まりだした。恋仲であるという褐色青年は乱取りに戻っているが、全く気持ちが入っておらず、ちらちらとこちらを見ては会話に耳を傾けているようだ。
「ワタシ、ジュウキドウ、ダイキライ。ダカラ・・・ジュウキドウニカチタカッタ。シバヤマシハンニカツコト・・・ジュウキドウニカツコト・・・ダカラ・・・ワタシ・・・」
大粒の真珠のような涙が、アーリアさんの眼からこのとき二滴零れた。美しく、そして悲しい涙だった。
「ここ数カ月はあまり学校にも行っていないようです。道場生の何人かが、昼間街中をうろついているアーリアを目撃しています。学費も滞納しているみたいですね。この国の学費は、労働者の賃金と比較して相対的に決して安くありません」
この時の田原支部長の顔は、何て表現したらいいのだろう。哀れみ、悲しみ、やるせなさ、憎しみ、優しさ。本来なら同居するはずのない相反する感情が、違和感なくごちゃまぜに表れている。
一方で美波さんの表情は、それはとてもとても優し気なものだった。人とはこれ程までに優しい顔ができるものなのかと思える程に。
「田原さん」
「はい」
「この国の高校に通う学費って、どの位なのかしら?」
「そうですね。県によりますが、それでも月々800バーツから900バーツくらいでしょう。日本企業に勤めている従業員の平均賃金が2万バーツ弱ですから、この金額は安くないです」
美波さんが真剣な顔をして、何やら考え込んでいる。その真剣な表情には、いまも限りない優しさが滲み出ている。
その時、ふと美波さんの眼が、何かを思いついたような輝きを発した。
「田原さん、紙とペンを準備下さいな」




