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美波店長とタイを旅行する(15)

筆が進んでます。


とんでもなくその足の運びは速かった。しかしその速さには、まるで愛する家族に近づくような穏やかさと自然さがあった。


とんでもなくその手の動きは速かった。しかしその速さは、久しく会っていなかった友人に差し出す握手のような親愛と友情に満ちていた。


いつ動き出したのか、私には分からなかった。

いつ掴んだのか、私には気付けなかった。


(さあ、続けましょう)

そんな言葉で、一度は終わったと思った乱取りを強引に再開させた美波さんが、自分から動いたのだ。そうなのだけれど、その初動を私はまるで確認できなかったのである。

いずれにせよ、美波さんは事も無くアーリアさんとの間合いを一息につめ、あっさりとアーリアさんの胴衣のそでを掴んだのだった。


にこりと美波さんが微笑む。反対にアーリアさんの顔には瞬時にして固い緊張が張り付いた。全てが一瞬の出来事。にも拘わらず、私にはその1秒にも届かなかった時間に起こった全てを理解することができた。時が私の中で凝縮されている。

そして、アーリアさんの体が、くうに大きく舞った。

直後に人の体重が床を叩くけたたましい音を聞いた。



うつ伏せになっているアーリアさんの表情はうかがえない。人の腕がここまで後ろに向くものなのかと思う程、肩から先のアーリアさんの右腕がいびつな方向に伸びている。アーリアさんの腕を抑えているのは、美波さんの細い腕一本だけ。手首の辺りを持ち、天井方向に捻じり上げている。


関節が外れたり、靭帯がちぎれたりということは起こっていないのだろう。しかしそんな惨劇が、美波さんの意思の一つ、もう一息の力加減で今すぐにでも起こってしまう。そんな危うさをはらんだ膠着こうちゃくだった。


美波さんはアーリアさんを制したまま動かない。アーリアさんは動くに動けない。田原支部長も今回は二人に歩み寄ったりしない。道場生の誰もがその場に立ち尽くしている。

そのとき、ぽたりと美波さんの顔からアーリアさんの首筋辺りに落ちたものがあった。

美波さんの鼻から滑り落ちた血だった。たった一滴の血が落ちる音さえ聞こえてきそうな圧倒的静けさと硬直。



「アーリアさ~~~ん」


いまいまの緊迫した空気の中、場違いなほどに優しくお茶目な美波さんの声が聞こえた。

声掛けられたアーリアさんには、それに反応する余裕はない。私の眼から見てもそれが分かる。


「アーリアさ~~ん、日本語分かるよね。いま、アーリアさんは、彼氏いるのかな~?」


限界まで腕を捻じり上げられているアーリアさんは、低くこもった呻き声を漏らすだけだ。

返答しない。当たり前だ。そんな余裕がある訳がない。


「このまま肩折っちゃうとね、当分のあいだ彼氏と腕を組んだり、お料理作ってあげたりできない体になっちゃうよ。さっ、マイッタしなさいな」


母親が娘を諭すような優しすぎる美波さんの語り口調。日本人ではないアーリアさんを気遣ってゆっくりと声を発するため、さらに優しさが増して聞こえる。

アーリアさんからの返信はない。田原支部長も動かない。ヤナギさんも私の横に立ち、腕を組んで成り行きを見守っている。その時、動いたのは意外な人物だった。


「マイリマシタ、アーリア、マイリマシタ」


美波さんの前に飛び込み、正座して、おでこを床に付け、片言の日本語で話したのは、先に美波さんと乱取りした褐色青年だった。美波さんは、すぐには技を解かない。アーリアさんの戦意がすでにないことを確認した後、ゆっくりと力を抜いた。うつ伏せ状態のアーリアさんから人ひとりの身長分ほどの距離を取って、ここで初めてアーリアさんへの視線を切った。

いまも床に額を押し付けている褐色青年を、美波さんは見下ろしている。


「マイリマシタ」


片言の日本語で発せられたその声の主はアーリアさんだった。

消え入りそうな震えた声を発した後、アーリアさんは床に伏したままと小さな嗚咽おえつを漏らし始めた。


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