美波店長とタイを旅行する(14)
楽しく書いてます。
軽く両手を握っているアーリアさん。位置はあごの前辺り。
軽く両手を開いている美波さん。位置は胸の前辺り。
どこか冷たさを感じさせるアーリアさんの視線が、美波さんの顔を真っすぐに見つめている。
どこか熱さを感じさせる美波さんの視線が、アーリアさんの胸の辺りに向いている。
そして二人とも・・・とても怖い。
私はもう理解している。いま美波さんと向き合っているアーリアさんという若く一見華奢な女性は、先般美波さんが制した褐色の青年よりも強いのだ。全く格闘技に関しての知見が無いただの女の勘。でもその勘は、間違いなく当たっている。そのことに確信が持てる。
すぅ~と美波さんが前に出た。美波さんが前に進めた距離と同じだけの距離を、アーリアさんが後方に下がる。二人の距離は変化しない。
もう一度、美波さんが距離を詰める。またアーリアさんが下がる。
美波さんから積極的に距離を詰めようとしている。
そのことが私には信じられない。
また美波さんが前に出る。今度はアーリアさんが下がらなかった。
逆に前に踏み込んで左脚を放り投げた。前方方向、美波さんの体に向けて。
(グンッ)と前に進む動きを美波さんがさらに加速させる。(ドンッ)とアーリアさんの蹴りが美波さんの胴にぶつかる。二人の体がぶつかり合って、態勢を崩したのはアーリアさんの方。よろよろと後方へ流れたアーリアさんの体を、美波さんが追う。
(ひょい)と美波さんの足が、アーリアさんの脚に絡まった。アーリアさんの体が床方向に沈む。
私は眼を閉じていたので確認できなかったが、きっと同じような技を持って褐色青年を床に倒したのだろう。その時には、青年の体が床に落ちる大きな音を、私は闇の中で聴いた訳だが、今回の攻防ではそんな音はしなかった。
猫がしなやかに着地するように、実に静かにアーリアさんは背中で床に着地した。
背を床に着け、体を丸めて下から見上げるアーリアさん。
両手を開いた構えのまま、上からアーリアさんを見下ろしている美波さん。
二人の動きが止まっている。上と下、暫しの睨み合いの後、美波さんが構えを解いて、数歩後方へ下がった。距離が生じる。
美波さんの動きを確認するや、アーリアさんが立ち上がる。背を床に落とす際に、一切の音を発生させなかったアーリアさんだが、立ち上がる時にも、どのような音も全く起こさなかった。
再び立ち上がった状態で睨み合う二人だったが、その時間は僅かだった。
動いたのはアーリアさんの方。この乱取りで初めてアーリアさんから前に出たのだ。
その時、美波さんの右脚が、(トン)と前に突き出た。先のアーリアさんの蹴りが、円を描くような大きく優雅な動きだったのに対して、美波さんの蹴りは直線的で、それ程の力感も感じさせなかった。
そんな美波さんの右脚が、アーリアさんの腕を打った。派手な音は全くしなかった。
それでもアーリアさんの前に出る動作が止まる。
「う~~ん、個性が出るねぇ」
腕を組んだヤナギさんが言う。
「アーリアさんの蹴りは、脛を薙刀のように使うムエタイの蹴り。美波さんの蹴りは、中足とか足底って言うんだけど、親指の付け根を使って蹴る昔ながらの古流武術の蹴り。そんな蹴り、アーリアさんは初めて経験しただろうから、多少は戸惑ったかな」
特に私が求めた訳ではないが、そんな補足説明をヤナギさんは付け加えてくれた。
そのヤナギさんの説明が終わるか終わらないかというタイミングで、アーリアさんが一気に前に踏み込んだ。また左脚の蹴り。(ドンッ)と大きな音を立てて、美波さんの体に膝からぶつかっていく。二人の距離が一気に潰れた。今度はアーリアさんの体が崩れることはなかった。気が付くとアーリアさんの左手が、美波さんの右襟を掴んでいた。
グルンと美波さんの体が空でひっくり返る。
これまで何度も美波さんが人を投げるところは見た。いとも簡単に、美波さんは自分よりも遥かに大きな人を投げることができる。そのことを私は知っている。
そんな美波さんが投げられた。あの芝山美波が投げられた。美波さんが頭を下にして、床に落ちていく。その光景が私にはまるで信じられない。さっきと同じように、床に落ちようとしている美波さんの頭がまたも持ち上がり、反対にアーリアさんの頭が沈んでいく。
きっとそうなるはずだ。
そんな私の希望的予感は覆され、美波さんは背中から床に落ちた。生じる違和感。何だろう、これ。あっ。
音だ。かなりの勢いで背中から床に落ちたはずなのに、全く音がしなかったのだ。背中自体が意思を持ち、着地の衝撃を吸収した感じとでもいうのか。そう言えば、さっきアーリアさんが背中を付いた時にも音がしなかった。
あれ?いつの間にか二人の動きが止まっている。
美波さんが床に背を付いている。それは先般から確認できている。
その美波さんに乗りかかるようにアーリアさんが被さっている。
そしてアーリアさんの首の辺りに、美波さんの脚が巻き付いていた。
見開いているアーリアさんの眼の中で血管が膨張している。歯を食いしばっているその表情には、まるで赤鬼が宿っているようだ。
「トライアングルホールド。三角締め。結構がっちりと入ってるね」
ヤナギさんの解説を聞いてなお、私には今の状況がまるで分からない。美波さんがアーリアさんに投げられた。そして二人して床に倒れ込み、動かなくなった。そんなところが私の確認できた状況把握。
「いま、下になってる美波さんが、脚を使ってアーリアさんの頸動脈を絞めてます」
そうなんだ。普通に考えたら、いま下になっている美波さんがピンチな状況かと思ったのだけれど。そうよね、美波さんより強い女性がそうそう存在するとは思えない。
今はそんなヤナギさんの言葉がすっきり腑に落ちる。
アーリアさんの顔が真っ赤に変色している。怖そうな女性ではあるけれど、敵には間違いないけれど、それでもちょっと可哀そうに思えてきた。
(ポンッ)
あっ、田原支部長だ。先の美波さんと褐色青年の乱取りを終了させたのと同じように、田原支部長が二人の体を叩いて、乱取りの終わりを二人に伝えたのだ。
美波さんが、アーリアさんの首に絡まっていた両足の力を緩めた。
赤い顔をしたアーリアさんが美波さんの脚を振りほどく。
ガチガチに固まっていた私の肩から、ふと力が抜けた。同時にこめかみから、一滴の汗が頬を伝った。
汗を拭おうとスカートのポケットからハンカチを取り出そうと右手を動かしたその時だった。
アーリアさんが大きく踏み込み、右脚を高く蹴り上げた。そして足の裏を今も床に横たわっている美波さんの顔面に打ち下ろす。容赦のない加減。スプリングの入った床が揺れる程の衝撃。
隣に立っていたヤナギさんが身を乗り出す気配を感じたことに、ヤナギさんをしてすら尋常ではないことが起こったのだと私は悟った。
「アーリア!」
田原支部長の悲鳴のような甲高い叫び。
床に横たわる人の頭部を足の裏で力任せに踏みつける。格闘技素人の私にも分かる。たぶんその行為は人の命を奪いかねない所作なのだ。だからこそヤナギさんは思わず身を乗り出し、田原支部長は高い声を発したのだろう。
いや、そんなことより美波さんは・・・
美波さんの顔とアーリアさんの足裏の間に、美波さんの交差された腕が挟まっていた。
アーリアさんの右脚を払って、美波さんが素早く起き上がる。
それとほぼ同時に、田原支部長がアーリアさんの胸倉を掴み上げた。眼に怒りが充満している。
「ワタシ、マダ、マイッタシテマセン」
ややイントネーションはおかしかったが、それでもしっかりとした日本語でアーリアさんは言った。黒く綺麗なアーリアさんの眼が強い光を発している。
その挑発的な視線に、温厚な人柄だと十分に想像できる田原支部長の顔が、一瞬にして紅潮した。ややぶ厚つめの唇が動いたその時だった。
「いや、戦いの最中に気を抜いた私の方が悪い」
私と田原支部長と、そしてアーリアさんの視線が、美波さんの方を向く。
その時、美波さんの鼻から一滴の血が垂れ落ち、真っ白な道着に小さな黒い点を作った。
「さ、続けましょう」
三度美波さんは両の手を軽く胸の前で開く構えを取った。




