美波店長とタイを旅行する(13)
今日は美波店長のモデルとなっているマッサージさんのところに行きます。
美波さんとアーリアさんが向かい合ったとき、いい大人がと思う程の困惑を露わにしたのは田原支部長だった。二人の顔へ交互に向ける視線が、落ち着きなく空を彷徨っている。
美波さんとアーリアさん。この二人が向き合う今の光景は、田原支部長にとっては想定外の出来事であり、できるなら回避したかったシチュエーションなのだろう。
つい先般、アーリアさんについて美波さんが尋ねたとき、(ああ、彼女ですか)という言い方を支部長はした。(ああ)という何気ない感嘆符一語に込められていた意味について、その時には深く考えが及ばなかった。しかし、いま支部長が見せている動揺は、この(ああ)に殊更な意味があることを如実に語っている。
ヤナギさんが言う(あの芝山美波)。支部長が(ああ、彼女)と意味ありげな形容をしたアーリアさん。そんな二人が向き合っている。二人を隔てているその距離は、さっき褐色青年が美波さんに向けて蹴りを放った時の距離と同じくらい。つまり今すぐに戦いが始まっても、全く不思議ではない距離なのだ。
先の褐色青年のときには、特にもったいぶることなく(始め!)に相当するタイ語を発した支部長が、その一言を発するのを相当に躊躇っている。数秒の沈黙がとてつもなく長い。
「レッツ ゲット スターテッド」
突然にそう英語で呟いたのは、何と美波さん。昨日関西空港を出発してからというもの、ハチャメチャとんちんかんな英語を連発していた美波さんが、実にしっかりとした英語で(始めましょうよ)とアーリアさんを促したのだ。
固く冷たい目をしたまま、アーリアさんが両の手を持ち上げる。その位置は顎の前辺り。掌は軽く握られている。先般、褐色青年が美波さんとの乱取りの後半に見せた構えとどこか似ている。
(この人も拳骨で殴ってくるし、たぶん蹴ってもくるんだ)
そう考えると、鎮まりかけていた冷たい恐怖が、再び私の背中を下から上へ、むずむずとよじ登ってきた。
そのアーリアさんの構えに反応するように(すぅ~)と美波さんも手を持ち上げた。
褐色青年との乱取りでは、構えらしい構えを見せなかった美波さんが、このたび両手を挙げた。そのことの意味を想像すると、すでに胸に満ちている恐怖が、さらに膨張する。
さっき美波さんが戦ったのは、身長170センチ余りの若い青年男性。いま向き合っているのは160センチ有る無しの、細身で華奢と言っていい女性。しかもその顔立ちには、まだ少女と呼んでいいあどけなさが残っている。青年が腰に巻いていたのは水色の帯だった。一方でアーリアさんの帯の色は美波さんと同じく黒だ。水色の帯をした人と黒帯を巻いた人との技術の違いを考慮しても、先の青年とアーリアさんとでは体格や筋力が全く違う。何より男性と女性の違い。一般的な常識に照らせば、青年の方がきっと強いはずなのだ。
ううん、たった今、そんな常識を覆す例外を、目の当たりにしたばかりじゃないか。
女性としても小柄な美波さんが、見事に褐色青年を、柔気道なるものの技術をもって制したのだ。
その事を考えると、この冷たい目をしたまだ18才だというアーリアさんという女性が、何だか怖くて仕方がない。
アーリアさんがちらりと田原支部長の方に視線を走らせた。
(まだ始めさせてくれないの?)
まさにそう訴える視線だった。その視線を受けてすら、まだ田原支部長は(始め)の合図を発しない。うん、私もそれがいいと思う。だって美波さんは、自分よりも遥かに大きな男性を相手に戦ったばかりだもの。こうなってしまっては、乱取りをすることは避けられないまでも、少しは美波さんを休ませてあげないと。ええ?
美波さんとアーリアさんの距離がふいに縮まったのだ。田原支部長の声を待たずして。
距離を詰めたのは、何と美波さんの方。一気に前方へ大きく足を運んでいたのだ。
(フッ!)
鋭い呼気が美波さんの口から洩れた。右手だ。さっきの青年のように拳骨ではなかったが、速く強く、アーリアさんの顔を掌で打たんとしたのだ。
そんな突然の美波さんの行動だったにも拘わらず、アーリアさんはまるで動揺の色を見せなかった。首を僅かに横に流し、美波さん掌を避ける。避けながら、美波さんの右手を抱え込んでいた。
美波さんの頭が下がる。床方向へ一直線に。このまま美波さんが床に捻じ伏せられるかと思った時、畳まで数十センチって位置で、美波さんの頭が落ちていく動きが止まった。(グンッ)と美波さんの体が持ち上がってくる。反対に床に向けて沈んでいくものがあった。アーリアさんの頭だ。二人の頭が、やじろべえの両端のように、その位置を交換していく。
気が付くと美波さんがアーリアさんの左腕を捩じ上げていた。先般、あの褐色青年を制したあの態勢。その時、地に伏すかと思われたアーリアさんの体が、前方に回転した。
動き自体は、むかし体育の授業なんかでやったでんぐり回りそのものなのだけれど、その回転の速度は途方もなく速かった。前方回転によって発生した勢いを利用して、抱えられていた腕を、アーリアさんは強引に引き抜いた。立ち上がって距離を取る。美波さんの方は、アーリアさんが離れるに任せて追っていったりはしない。
固い強張った空気を挟んで、また向き合う二人。でもそんなことより・・・
「いま・・・美波さんの方から手を出しませんでした?始めの合図もなかったのに」
格闘技の練習の一場面だ。自分から技を仕掛けることが悪だなんて世界ではないのだろう。
それでも、あの美波さんが先に手を出すということが、私には信じられなかった。しかも不意打ちに近いような仕掛け方。
「う~~~ん、一言では説明しづらい」
そんな口調のヤナギさんは、本当に説明に困っているようだ。その目には収まり切らない興奮が見て取れる。
「菊元さん、テレビで相撲は見る?」
相撲?私自身、能動的に相撲なんて見ない。興味もない。まだ実家で暮らしていた頃、たまたまお父さんがテレビで見ていた場面に遭遇したことがある程度だ。
「相撲の立会って、別に合図がある訳じゃないんですよ。お互いの呼吸だとか気だとかが合ったタイミングで、同時に立ち上がる訳なんだけど・・・そんなイメージかな。今の立ち合い。まあ、動くべきタイミングで動いたってことですよ。それにしても・・・」
それにしても何なのだろう。次のヤナギさんの言葉を聞くのが、とんでもなく怖い気がする。
「とんでもなく高いレベルの攻防だった。たぶん、タケダ・ソウカクもウエシバ・モリヘーも天から身を乗り出して見てるんじゃないかな。何より芝山惣十郎と四宮文二の二人は気が気じゃないだろうね。今にもあの世から舞い戻ってきてそうだ」
タケダ何某もウエシバうんちゃらも、それが誰なのか私にはまるで分からない。芝山惣十郎なる人物が、美波さんの曽祖父であることだけ知っている。
「美波さん、勝ちますよね」
いま私の胸の中に生じている嫌な不安を、ヤナギさんに綺麗さっぱり払拭して貰いたくて、私はヤナギさんにそう問うた。
すぐにはヤナギさんの応答はない。ますます不安が増大する。
「芝山美波より強い女性が、そうそうこの世に存在するとは思えない。そんなレベルだよ。美波さんの強さは。でも・・・」
(でも)という聞きたくなかった接続詞が、またまた私の中の不安を増大させる。
でも・・・なに、一体?
「僕も、あんな顔をした芝山美波を見るのは、初めてのことだから・・・」
軽く掌を開いた美波さんの構えは、さっきと寸分も違わなかった。
違っていたのはその表情。隙の欠片も感じさせない引き締まった口元。相手を突き刺すような鋭い眼光。先の攻防でやや乱れた黒髪。
そこには私の見たことのない気高いくらいに厳しい美波さんの顔があった。




