美波店長とタイを旅行する(12)
最後にリングに上がってからもう2年が経ちます。早いですね。
二人の態勢が固まって動かない。
今も青年の腕は天上に向かっている。二の腕の筋肉が強張っていて、ギリギリと音が聞こえるようだ。相当の力が青年の腕には籠っているのだろうと想像できる。それでも身動き一つ叶わないといった体。
身の動きは叶わないが、代わりに小さく聞こえたものがある。
(グゥッ)という感じの青年の呻き声。床に伏せている状態なので、その声はくぐもっていて曖昧にしか聞き取れない。青年が苦しんでいることだけがはっきり分かる。
片や美波さんの体には、どこにも力感が感じられない。円熟の騎手が荒馬を苦も無く御している。そんな感じ。
「蹴りを出すってことは、即ち片足で立つってことだからね。バランス的には決してよくない。まして蹴り足に体重が乗れば乗るほど、軸足が地を噛む力は軽くなる。まあ、見事としか言えない技のタイミングだったね」
私の横でヤナギさんが独り言。誰に向かっての発言という訳ではないようだ。
その時、いつの間にか二人の脇に移動していた田原支部長が、(ポンポン)と今も動かない二人の肩を叩いた。
美波さんが青年の肩に乗せていた膝を解く。すぅと立ち上がる。
数舜遅れて青年も立ち上がる。どこかを痛めたとか怪我をしたという感じではない。
立ち上がった青年が、とても強い目で美波さんを睨んでいる。が、不意に青年の眼がその光を失ったように思えた。そして深々と頭を下げた。日本式のお辞儀。腰を曲げる角度が深いとても丁寧なお辞儀。
その青年の所作を見るや、美波さんが笑顔で青年の方に歩み寄る。
なおも頭を垂れている青年の両手を取り、そして握る。
初めは疎らだった。誰が始めたかも分からない小さな拍手の音が、徐々に大きくなり、そしてこの場に居る全員が手を叩く音に変わった。寄せる度に大きくなる波のような拍手だった。
私の横で手を叩くヤナギさんの拍手の音が、殊更に大きい。
少しはにかんだような美波さんの顔。青年のそれも、悔し気なものを残しつつも、どこかすっきりとした表情になっていた。
やっとここにきて、全身を支配していた緊張を、私は僅かに弱めることができた。
「あの・・・美波さんが、勝ったんですか?」
ようやくそんな言葉を私はヤナギさんに掛けることができた。
「まあ乱取りだから、勝った負けたってのも変だけど。でも、まあ美波さんの勝ちだね」
特に驚いた様子でもなくヤナギさんが応えてくれる。
「私にはよく分りませんでした」
それはそうだ。肝心のタイミングで私は眼を閉じていたのだから。
そんな私の疑問顔に対して、ヤナギさんが回答してくれたのだろう。言葉を繋いでくれる。
「相手が全力の蹴りを出したそのタイミングで、軸足を払ったんですよ。一歩踏み込みながら。それはもう見事なタイミングで。コンマ数秒、いやもっと短いかも知れない隙を捕えてね。いま思えば、何発か蹴りを受けたのも、わざと受けてタイミングを計ってたんじゃないかな。そして相手を倒した時には、もう腕を捕って相手を抑えていた」
すでに手を打つことを止めていたヤナギさんだったが、それでも興奮したままの表情だ。美波さんをぐるりと囲んでいる皆の拍手もまだ収まらない。
しばらくは鳴り止まないと思えた拍手が、ある方向から静まっていったのは、それから数秒後のことだ。道場生が作っている円の外側からのある部分からゆっくりと。
綺麗な満月が端から雲に喰われていくように、少しずつ少しずつ、ゆっくりとゆっくりと。円陣の一番外側で二人の乱取りを見つめていたアーリアさんが、その中央に歩んできたのだ。
円陣の真ん中で、美波さんとアーリアさんが2メートルほどの距離を空けて向き合った時、道場内には再び固い緊張が戻っていた。




