美波店長とタイを旅行する(11)
勢いが出てきました(自己評価)
青年の手数の多さはこれまで通り。違っているのが手首から先の形状。
さっきまでは掌を少し開いた状態で、美波さんの袖や襟を捕まえにいく動作がほとんどだったが、ここにきて拳骨を作って殴りに来ているのだ。それはもう、はっきりと殴る意思を露わにして。
若く体力もある立派な青年が、小柄と言っていい女性に向かって両の拳骨を振り上げている。それだけじゃない。一度は女性のお腹を蹴ろうとする暴挙まで犯している。全くの喧嘩じゃん、これって。私の中の常識と照らせば、男として許されざる行為の連続。この場にいる誰も、それを止めようとしないことが私には不思議でしょうがない。
格闘技とはそんなものって言われると、そうなのかも知れないけど。
美波さんと青年が向き合ってからどれくらいの時間が経過しただろう。
3分ほどの時間かも知れないし、まだ1分も経っていないかも知れない。私の常識をとんでもなく逸脱した眼前で繰り広げられている光景に、私の時間感覚が完全に麻痺させられている。
呼吸がとても苦しい。脇の下辺りから変な汗が噴き出る。自分が戦っている訳じゃないのに。
またも褐色青年のつま先が美波さんのお腹を掠る。敢えて当ててないのか、それとも美波さんが躱しているのか。私には分からない。いずれにせよ、もしこの青年の放つ蹴りが美波さんの体のどこかにぶつかったなら、それはこの乱取りの決着を意味するのだろう。青年の足が跳ね上がる度、(ビュン)と空気を切る凄まじい音がする。
美波さんの両手は今もだらりと下げられたまま。足の運びと上半身の動きだけで、手や足による攻撃を透かしている・・・のだろう。
見ているこちらが震えてしまう程、青年の攻撃と美波さんの体との距離は近かった。事実、何度かは青年の足の甲が、美波さんの胴衣を掠っているのだ。きっと彼の攻撃が、美波さんの体を捕えることはない。仮にもそんな事があってはならない。あり得ないはずだ。もし僅かでもそんな危険があるのなら、横に立っているヤナギさんがきっと黙ってはいない。そんな信頼を抱くほど、ヤナギさんのことを知ってる訳じゃない。私の勝手な希望的憶測なのだ。それでもいま自分は、この勝手な推測にすがるしかない。
私が思わずヤナギさんに振り返ったのは、空気中にけたたましい音が生じた時だ。
人の体が人の体を強く打つ音。
(バチッ!)とも聞こえたし、(ガキッ!)だったかも知れない。いずれにしても大っ嫌いなその音。これまでの半生で、生で聴いたことは一度もないかも知れない。家庭内暴力とも校内暴力とも、社会に出てからは言うに及ばず、全く暴力なんてものとは縁の無かった半生なのだ。この嫌な音を聴くのは、それはせいぜいテレビで見るドラマか何かの一場面。作り物の音ではないリアルな暴力という名の音を、いま初めて私は生で聞いた。
青年の蹴り足が遂に美波さんの体に当たったのだ。背中の産毛が一斉に逆立つ不快感と恐怖。
「大丈夫、防御はしてるよ」
私の方を振り返ったりはせず、ヤナギさんがぼそりと呟いた。
「でも・・・」
「うん、かなり本格的な蹴りだからね。ガードの上からでもノーダメージってことはないだろうね」
変わらずヤナギさんの声色は落ち着いている。そしてヤナギさんは私なんかより遥かに“芝山美波”のことを知っている。そんなヤナギさんが今もなお落ち着いているのなら、私が慌てたり騒いだりする段階じゃない。
そんな楽観的思考のもう一方で、若く体力のある青年が、決して体格に恵まれている訳ではない女性を蹴り続けているという眼前の光景が、あってはならない景色にも思える。
もしや私は、ヤナギさんのことを買い被ってはいないか。ヤナギさんと初めて会ったのは、昨日の深夜。そして小一時間ほど、食事をしながら世間話の域を超えない雑談をしただけだ。無条件に信頼できるほど、この人のことを理解している訳じゃないのだ。
一度そんな疑念が顔を出すと、一気に不安が私の中で増大し始めた。
(この人を、いま頼りにしてもどうしょうもない)
そんな思いで、美波さんと青年の戦いに視線を戻すも、私ができそうなことはまるで思い付かない。またも青年の蹴りが美波さんの体を打つ音が響いた。20人を超える道場生の誰もが黙り込んでいるため、その嫌な音は何者にもかき消されることなく、直接に私の鼓膜を打つのだ。
一回目の音が、(バチンッ)って感じの肉が肉を打つ音だったのに対して、今回のは(ゴツンッ)って感じの、骨と骨が強くぶつかる音が混じった。肌が泡立つ嫌悪感。
駄目だ。見るに堪えない。でも見ずにはいられない。そのことが、何だか私の義務のような気がするのだ。
美波さんが後ろに下がる。青年が間合いを詰める。青年が腕を大きく振り上げて美波さんに迫る。鷹が翼を広げ、ウサギに襲い掛かる様な動き。振り上げた腕を下ろす反動を利用して、地から鞭の如くしなる青年の左脚が跳ね上がる。
遂に私は眼を開いていることができなくなった。そして訪れた暗闇。
闇の中で、私はその音を聞く。鞭が空気を裂く音とほぼ同時に、(ドスン)と重く大きな物が地に落ちる音。そして訪れた静寂。
その静寂に導かれるかのように、私の瞳が開かれる。闇から一転、眩い程の室内の灯り。その灯りの向こうで・・・
青年が地に伏していた。彼の左手が天井の方向を指し、その腕を美波さんが上方向へ捻じり上げている。美波さんの右膝が青年の肩の付け根あたりに乗っている。
蝋で固められたように、二人の体はその体勢のまま動かなかった。




