美波店長とタイを旅行する(10)
ヤナギの自慢は結局釣りと格闘技なんだな。
褐色タイ青年の左腕が、美波さんの襟に向かって真っすぐ伸びてきた。その動きはゆったりしているように見えて、しかし直線的で速かった。
一歩後方に下がりながら右腕で美波さんが、その手を横に払った。まだまだ体にも心にも十分な余裕が感じられる優雅ささえ漂う動き。二人の動きが止まる。その時間はたったまばたき一個分。
また青年の左手が美波さんの襟に向かう。半歩分ほど美波さんが斜め後方に体を引く。一回目の時より下がったその距離は短い。と、美波さんに向かって伸びてきた褐色の左手が、伸びてきた時の倍以上の速さで引っ込んだ。引っ込んでいく左手と並行に美波さんの襟に伸びてきたのは青年の右手。(ガシッ)と美波さんの白い胴衣の襟が掴まれた。(ドキン)と私の心臓が鳴る。しかし・・・
美波さんより頭半分ほど高い青年の身長が、一瞬にして低くなった。青年の頭の位置が美波さんのそれよりも低くなったのだ。あっ、膝だ。青年が美波さんの襟を掴むと同時に、(カクッ)と青年の膝が砕けたのだ。だから青年の身長がその瞬間に縮んだように思えたのだ。
そして私は思い出す。あれは美波店長の店での出来事。美波さんと握手をした状態で向かい合った時、美波さんはいくらも力を使わず、私の体勢を崩し、両膝を床に付けた。
(技術です)
そんな表現をあのとき美波さんはした。正にあの技術をいま美波さんは出したんだと、私は想像した。
私は為す術もなく床に膝をついてしまったのだが、その時と違ったのは、青年が床に沈みそうになりながらも、膝を地に付くことをどうにか回避したことだ。右手で捕えていた美波さんの襟を自ら放棄し、床方向に崩れかけた体勢を持ち直し、後方に飛んで逃れようとする。
しかし青年と美波さんの距離は変わらなかった。何か見えない紐で繋がっているように、青年が後方に飛んだ距離と同じだけの距離を、美波さんが足を前に運んだのだ。
さらに後方への退避行動を青年がとる。美波さんがまた距離を詰める。熟練者の踊る社交ダンスを見ているように二人の間の短い距離は変わらない。
(ザッ、ザッ)と2人の足裏が畳を擦る音が大きくなる。
その時、(トン)と美波さんが青年の胸の辺りを掌で押した。強い力ではない。軽く、本当に軽く、あたかも知り合いの肩を叩くような力感。それでも(ステン)と呆気なく青年が背中から畳に落ちた。
背を床に付いた青年は首をもたげた状態で美波さんから視線を逸らさない。膝を大きく曲げ、いつでも下から美波さんを蹴り上げられるような体勢を作り、そしてそのまま動かなかった。美波さんも追撃するようなことはせず、上から青年を見下ろしている。表情は変わらず涼やかだ。
「う~~ん、見事」
私の横でヤナギさんが唸った。
「どうして相手の人は、あんなにあっさり転げてしまったんですか?」
思い切って私はヤナギさんに問うてみた。
「足ですよ。下がっていく相手の足に自分の足を絡めたんです。足の甲を使って絶妙のタイミングで・・・相手の踵をね。それだけでも倒せただろうけど、ダメ押しに胸まで突いた。あれは倒れるしかないでしょうね」
私には全く分からない武術に関しての機微が、このヤナギさんには見えているようだ。まあ武術の主席師範である美波さんと交流があることを考えれば、それは全く不思議なことではない。なにせ美波さんのことを、(あの芝山美波)という意味深な言い方をしたヤナギさんなのだ。むしろ芝山美波とは何者なのか、その事を相当深く知っていると考える方が自然である。
美波さんに追撃を加える意思がないと見るや、青年は隙を作らずスクっと立ち上がった。
特に体がダメージを受けたという感じはない。ダメージを受けたのはたぶん精神の方。
褐色の顔に朱色が差したことが、少し離れた位置にいる私にもはっきりと分かるほどだった。
青年の動きが激しくなる。立ち上がるやすぐに距離を詰め、矢継ぎ早に美波さんの襟や袖を取ろうとする動きを繰り返した。それは何かを掴もうとする動きというよりは、何かを叩こうという動きに私には思えた。青年の伸びてくる手が体のどこかに当たれば、それは相当に痛いだろうと想像できる速さと力強さを、全ての挙動に宿していた。
伸びてくる青年の両手の動き全てを、美波さんは一度も触れさせることなく避け続けている。どちらかを攻め手、どちらかを守り手とするなら、今繰り広げられている攻防は、明らかに美波さんが攻められている側と言える。それにも拘わらず、全てに余裕が感じられるのは美波さんの方。格闘技にまるで見識のない自分でも分かるのが、何だか不思議な感じだ。
いつしかこの美波さんと褐色青年の乱取りを、道場生の皆が取り囲んで見守っていた。
さらに赤く膨らんだ青年の表情。いまも飽くまで涼し気な美波さんのそれ。
少なくとも15回、もしかしたら20回目に及んだかも知れない青年の襟や袖を取りに行く動きが、またも美波さんに透かされた瞬間、この青年の動きが突如としてこれまでのそれとは大きく変化した。
左の手を躱されれば次は右、躱されたのが左手ならば逆。左右の手で交互に襟や袖を取りに行く動きを繰り返していた青年の両手の動きが空で止まったのだ。
そのとき手の代わりに美波さんに迫っていくものがあった。彼の左脚だ。床から伸び上がった青年の左脚が、美波さんのお腹に向かって跳ね上がり、美波さんの真っ白な胴衣の合わさった部分を強く掠ったのだ。その勢いで、綺麗に合わさっていた美波さんの着衣が乱れ、胴衣の下の黒いシャツが露わになった。
はっきりと眼に捕えた訳じゃない。青年が足を蹴上げたこと。美波さんの着衣が乱れたこと。それらの結果から導き出した私の後付けの推測だ。
室内に皆のどよめきが波立つ。思わず私は身を乗り出してしまう。
「これって・・・蹴ってもいいルールなんですか?」
救いを求めるように、私は横に立っているヤナギさんに問う。
「柔気道の乱取りで、あそこまであからさまにムエタイの蹴りを出すってのは、まあ珍しいね」
ヤナギさんの声色は落ち着いている。そのことに少しだけ私も安心する。それでも青年が左脚に乗せて美波さんに叩き付けた殺気や敵意は尋常じゃなかった。
「なんだか、もし当たったら大変なことになりそうな蹴りだったように見えたんですけど」
「まあ、この国で格闘技をやろうって人間だからね。当然ムエタイを学んだ経験はあると考えるべきだね」
ここにきてやっと私は、ムエタイなるものが、食べ物や街の名前なんかじゃなく、格闘技の一種であることを知る。
「止めなくて大丈夫なんですか?」
ヤナギさんの落ち着いた声を聞いてなお、嫌な予感が静まらない。
「フリーファイトでやろうって言い出したのは、美波さんの方だから・・・」
数歩分青年との距離を自ら一度広げ、美波さんは乱れた着衣を正した。
いくらも間を置かず、美波さんは青年との距離を詰めた。さっき青年が蹴りを出した距離よりもごく僅かに二人の間の距離は遠い。
そして私は驚いた。美波さんはこのとき確かに笑っていたのだ。それも実に楽しそうに。
(さあ、もっと遊びましょう)
その美波さんの笑顔と眼の輝きは、明らかに青年に対してそう囁いていた。




