美波店長とタイを旅行する(9)
マッサージ小説だったはずなのですが・・・もう軌道修正できません。
“乱取り”なるものが始まるや、道場内の空気と音が一変した。
道場生の足が畳の上を激しく走る音。強く引かれた胴衣が空気を切る音。気合のような叫び声。時に人の部位が人の体を叩く音も聞こえる。
(見応えがある)と美波さんが言った理由がよく分った。道場内の空気が一気に緊張を増した。伴い空調が効き過ぎるほどに効いていた室温も、やや温度を上げたようだ。
さっきの“約束うんちゃら”のように頻繁に人が倒れたり転がったりはしない。投げられそうになったり転がされそうになった人は、足を踏ん張り、そして腰を落とし懸命に堪える。堪えられた側は、さらに技に力を込める。強い力と力が均衡し、両者の口から叫びの如き奇声が発せられる。これはなかなかに迫力がある。
改めて(柔気道)なるものが武術、若しくは格闘技なんだという事を私は理解する。
ついさっき美波店長の指導を受けていた可愛い黒髪の女の子も、生き生きとした表情で自分よりも二回りは大きい男性を相手に組み合っていた。何だかとてもそのことが嬉しかった。きっと彼女は今日という日に美波さんから受けた指導を、この先一生忘れないのだろう。
美波さんはまだこの乱取りとやらには参加していない。涼しい顔で皆の繰り広げている取っ組み合いを眺めている。
(ズダンッ)とその時、一際大きな音が室内に鳴り響いた。一人の道場生の背が、激しく床を打ったのだ。
おそらくは20代と思われる男性が床に叩き付けられ呻いている。背中を強打して、思うように呼吸ができないようだ。いまも苦しんでいる男性の横で平然と立っているのは、あのアーリアさんだった。ちらりと彼女は、そのとき美波さんの方に視線を走らせた。
視線を向けたのはきっと1秒にも満たない時間。そんな一瞬の視線の動きだけで、はっきりと彼女は美波さんに対して、(どうだ)という無言の主張を投げつけていた。
一方で美波さんの表情には変化がない。男性の背中が激しく床に落ちた音は、当然聞こえただろうけど、その方向に視線を向けることすらしなかったように見えた。
私の体内時計の感覚だけれど、およそ5分程度の時間で、道場生はそれぞれ組み合う相手を変えていた。室温はますます高くなり、湿度も増してきた。備え付けられていた大きな空調の自動調節機能がそれを感知したのだろう。循環ファンの発する音が一段と大きくなった。
私が確認できただけで3回ほど道場生は相手を変えていたので、乱取りが始まってから15分以上の時間が経過している。まだ美波さんは参加していない。涼しい顔で皆の練習を見つめている。と、その時一人の道場生が美波さんの前に立った。丁寧に両手を合わせ挨拶した。20代前半、身の丈170センチ余りの立派な青年。日焼けなのか地の色なのか分からないが、褐色の顔は引き締まり、胴衣の下はきっと鍛え抜かれた体なのだろうと容易に想像できる。
きっとこの青年は乱取りの申し入れを美波さんにしたのだろうと思うと、俄かに私は緊張し始めてしまった。そんな私以上に露骨に戸惑いを露わにしたのが田原支部長。
そわそわと美波さんの脇まで歩み寄ってきたのだが、特にどんな言葉も発しない。表情だけで、(いいのですか?)なんて問い掛けを美波さんにしている様子だ。
(もちろん)
美波さんが田原支部長に返した表情の意味するところは実に明確だった。
しなやかな歩調で道場の中央まで進む美波さん。褐色の青年が明らかに緊張した面持ちで後を続く。周りの道場生も皆がいつの間にか動きを止めている。彼らの眼に好奇と何かの期待の色が浮かび上がっている。どうしてだか自分でもよく分からないが、このとき私は、あのアーリアさんの姿を探していた。すぐにアーリアさんを見つけることができた。冷たく、そして何だか怖い視線。少女と呼んでいい10代の綺麗な女性が、どうしてこんな冷めた怖い表情ができるのか、そのことが私には何だかとても不思議だった。
(ここらでいいでしょう)
そんな感じで美波さんが進めていた歩を止めた。くるりと振り返り青年と向き合う。
そこはちょうど広い道場の中央付近。優しそうで涼し気な美波さんの視線は、これまでとまるで変わらない。一方で青年はやはり緊張しているように見える。
「せっかくだからフリーにしましょうよ。フリーファイトね。田原さん、通訳して下さいな」
またまた田原支部長とやらの表情が、極度の緊張を覗わせるものに変化した。
そして無理やり絞り出すように、何やらタイ語と思しき言葉を発した。美波さんと向き合っていた褐色の肌の青年がこくりと頷く。
「へぇ、芝山美波のフリーファイトが今から見れるのか」
すぐ私のすぐ後ろで日本語が聞こえた。振り返ると、あのヤナギさんが立っていた。全く気が付かなかった。一体いつからそこに。
(昨晩はごちそう様でした)
そんなお礼の言葉をかけようとしたが、その言葉は喉の手前で行き場を失った。
ヤナギさんの美波さんに向けられた強く真剣な眼差しが、私の言葉を遮ったのだ。
「始まるよ。あの芝山美波のフリーファイト」
(あの芝山美波)・・・(あの)の部分にはきっと私の窺い知らない深い意味が込められているのだろう。
ごくりと唾を飲みこんで、私は美波さんの立つ道場中央付近に視線を向けた。ついさっきグラス一杯のハーブティーを飲んだばかりだというのに、もう私は喉の渇きを感じていた。
田原支部長の意を決したような大きなタイ語が響く。ゆっくりと向かい合う二人の距離が縮まった。




