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美波店長とタイを旅行する(8)

今年は本職の魚釣りが好調です。


その厳かでどこかノスタルジックな建造物は、中に入って見るとまるで高校の体育館のような構造だった。“バン、バン”という重たい破裂音と、人が何やら叫ぶ声が分厚い扉を物ともせず耳に届いてくる。

何故だか私は急に緊張してしまって、土埃を少し吸い込んだこともあり、のどがイガイガして相当に気持ち悪い。

数十人分の靴が、エントランスには乱雑に脱ぎ散らされていた。それとは対照的に美波さんは脱いだ靴を丁寧に揃えた。私もそれにならう。


美波さんがいかにも重たそうな扉を手前に引いたとき、まず視界に飛び込んできたのは広い空間。そして一斉にこちらに向けられた白い柔道衣みたいのを着た数十人分の好奇の視線。先に漏れ聞いた叫び声は、この人たちが発していたものだろう。

扉が開かれた瞬間に数十の動きも声も、その全てが一瞬だけ時を止めたようだ。

と、一人の白髪男性が慌てた様子でこちらに駆けてきた。中肉中背、白い着衣に黒い帯。肌の色が白い。おや、日本人か?

私達の手前まで来るや、その白髪男性は美波さんに深々と頭を下げた。そして両手を握る。やけに馴れ馴れしい感じだったが、美波さんに嫌がる様子は覗えない。いつもの穏やかな涼しい笑顔のままだ。


「はるばるタイまでようこそ。主席師範」


「ご無沙汰しています。田原たはら支部長」


どうやらお互いに面識はあるようだ。

田原支部長と呼ばれた男性が振り返って全員に声を掛けた。発せられた太い言葉は日本語ではなかった。英語でもなかった。ならばきっとタイ語なのだろう。一斉に白い服を着た人たちが群がるようにこちらに駆けてきた。その数20、いや30人。若い人が大多数。日本なら小学生高学年から高校生ってところの年齢層が圧倒的に多い。一部年配、年配といっても20代から30代と思しき人達が5~6人。この人たちだけが色の付いた帯をしている。茶色や緑色や、水色の帯をした人もいる。黒い帯を締めた人は、ごく一部だ。

あっという間に美波さんを囲むや、彼らは青い畳の上に正座した。へぇ、この国でも正座をする文化があるんだ。それとも日本の武術の道場だからなのか。

皆の眼が濡れて輝いている。何だろう、この輝きの正体は。まるで憧れのテレビタレントを見るような視線だ。やっぱ、美波さんって、とんでもなく凄い人なのかしら。


「はいはい、堅苦しい挨拶は抜き。てか、私がこう言うの苦手。みんな練習続けて・・・んっ?日本語通じないか。田原さん、そう皆に伝えて下さいな」


田原さんとやらがペコリと美波さんに一礼して、タイ語と思しき言葉で集まってきた人たちに何やら発した。

一度は美波さんを取り囲んだ白い服の人達が何か納得したように立ち上がり、そして少し残念そうに、各々空間に散らばっていった。




二人一組で組み合っている。あまり詳しい訳ではないが、それでもなんだか柔道の練習っぽい。柔道発祥の国で生まれた日本人なので、それくらいのことは何とか分かる。

二人組の片方が、手にした相手のそでを引きながら、もう一方の手を相手の肘の内側に当てる。そして体を沈める。

袖を下方向に引かれた方の人が、コロンと地面に転がる。投げられているという感じではない。どちらかと言えば自分から転がっているように見える。

高校生の時に、ほんの数回、体育の授業で柔道をやったことがあるが、あのとき柔道の先生は何と言ってたっけ?約束うんちゃら・・・確かそんな呼び方の練習だった。

投げる側は技のかたを習得する。投げられる側は抵抗したりせず、受け身の練習をする。

いま目の前で行われているのは、その約束なんちゃらの柔心会バージョンなのだろう。

正直、あんまり皆の動きはカッコ良くはない。(武道の達人です)って感じの人は素人目にも見当たらない。でもそんなことより・・・


道場の隅っこに立って優しい眼差しで皆の練習を見守っている美波さんの道着姿のカッコいいこと。真っ白な衣に真っ黒な帯。腰にまで達している束ねられた黒髪。立ち姿だけで見惚れてしまう。私だけではない。美波さんが着替え終えて、再びこの室内に入って来たとき、ため息交じりのどよめきが、皆から起こった・・・ような気がした。場の空気が、この瞬間変わった。しばらくの間、皆の動きが止まったほどだ。


(美波さん、すごくカッコいい)


そんな私の羨望にも似た眼差しに美波さんは気づいたのか、こちらを見てニコリと微笑んでくれた。

田原支部長とやらは何を勘違いしたのか、この場では金魚の糞以下の私に、立派な椅子と机を準備してくれた。そして透明のグラスに入っているよく冷えたお茶とペットボトル一本の水を差し出してくれた。

極度の緊張と、少し土埃を吸い込んだことで喉がカラカラになっていた私は、ありがたくこの冷たいお茶を頂いた。鼻から抜けるハーブの香りに神経が癒される。本当に美味しい。

美波さんの言う通り、どうやら私の味覚はタイ向きなのかも知れない。



美波さんがある二組の練習にずっと視線を向けていることが分かったのは、つい先ほどのことだ。私もその方向を見る。

日本で言えば高校生くらいの男子と、とても小柄な女の子とが組み合っている。顔立ちがやっぱり日本人とは少し違うので、正確な年齢は読み取れないが、この女の子はきっと中学生くらいだろう。眼が黒く大きく、とても可愛らしい。体の線も華奢だ。男子の方は身長165センチくらいあるのに対して、女の子の方はたぶん150センチに届いていないだろう。

女の子が袖を引きながら自分の手を相手の肘に当てて投げようとするのだが、男の子のほうが微動だにしない。それでも懸命に男の子を転がそうとしている。


(この練習はたぶん約束うんちゃらなのだから、男の子の方も投げられてあげればいいのに)


そんな感想を私が抱いた時、いつの間にやら美波さんがその二人の横に立っていた。

眼の大きな女の子に向けられている美波さんの眼は本当に優しそうだ。私の知る限り、美波さんは人の親になったことが無いはずだ。それでもその視線の温もりは、まるで愛娘に向ける母親のそれだ。美波さんが男の子の袖を持った。

並んでみると、男の子の方が美波さんより10センチは背が高いようだ。いかにも肩に力を込めて、男の子を下方向に転がそうとする動きを美波さんがする。今までとまるで同じで男の子の方はビクとも動かない。

袖を放して両手でバッテンを作った美波さん。言葉はないが、(ダメダメ)ってことを言わんとしているゼスチャーなのだろう。

また男の子の袖を取る美波さん。体のどこにも力みが感じられない。街を歩く仲の良いカップルが自然と腕を組むような、そんな微笑ましさすら感じる自然な動き。そのとき、すぅ~と美波さんの背筋が伸びたように感じた。そして不意に美波さんの体が沈むや、男の子が空で一回転し、そしてけたたましい音を立てて背中から床に落ちた。

あっ、一緒だ。何時ぞや美波さんの店でワタルさんが投げられた時と全く一緒だ。


背中から落ちた男の子が顔を上げ、驚いたような表情を浮かべる。女の子のきょとんとした顔にも驚きの色が覗える。


(肩に力をいれない。リラックスリラックス)


体の力を抜き、ブルブルと両手を振る挙動だけで、そんな無言の言葉を美波さんは女の子にかけた。眼を輝かせて女の子が男の子の袖を持つ。その時、(パンッ)と美波さんが女の子の背中を軽く叩いた。背中を叩かれた反動で、(ぽん)と女の子の背筋が伸びた。

自分の手を相手の肘に当てて、女の子が体を沈めるや、さっきはピクリともしなかった男の子が呆気なくコテンと床に転げた。


「Good!」


一言だけそう発して美波さんが二人から離れた。女の子の濡れた黒い眼が、美波さんの離れていく背中をしばらく追いかけていた。



見ていて全く飽きることがなかった。美波さんが一度ひとたび相手の袖やえりを捕えるや、決まって相手が空を一回転した。そして皆一様に驚きの表情を見せる。性別や体の大小は全く関係なかった。皆が音を立てて背中から落ちた。相手を投げ飛ばす美波さんの挙動には、一切の力感が感じられない。それでも相手が派手に宙に舞う。魔法にしか見えない美波さんの技に見惚れている間に、この建物に入ってからたっぷりと1時間以上の時間が経過していたことに気付く。田原支部長が、たぶんタイ語で(休憩~~)てな意味の言葉をかけたのだろう。皆が組み合うのを一斉に止めた時、ふと時計を見て気付いたのだ。

美波さんがこちらに歩み寄ってくる。私が確認できただけでも10人以上の人を投げ飛ばしてもなお、その表情はとても涼しげだった。


「菊元さん、退屈してないですか?」


「はい、全く退屈してません。美波さん、めちゃカッコいいです」


全くの本音なのだが、(止めてよ~)と言いた気なお茶目な表情を美波さんは返してくれた。

田原支部長自らがまたまたハーブティーを持って来てくれる。グラスは2個。私と美波さんの分なのだろう。グラスを受け取るや美波さんが美味しそうに喉を鳴らす。


「退屈してないのなら良かったです。今からは少し見応えがあるかも知れませんので、もう少々辛抱下さいな」


一気にハーブティーを飲み干した美波さんが言う。


「今までも十分に見応えありましたけど、これから何が始まるんですか?」


何だか少し私はわくわくしていた。武術がと言うべきか美波さんの技がって言うべきか、いずれにせよ美しいものはどれだけ見ても退屈しない。そんな感じ。


「今からやるのは“乱取らんどり”って言って、う~~ん、まあ自由練習というか、実戦形式の練習というか、まあそんなところです。ところで田原さん、あの子、何者?さっきからずっと睨まれてるんだけど・・・」


美波さんがそう言って向けた視線の先に、一人の若い女性が立っていた。身長は美波さんよりは高く、私よりはいくらか低い。160センチちょうどと言うところか。体がよく引き締まっているのが分かる。日本人と比較すればどうだか分からないが、タイ人の中では肌の白さが際立つ。鼻立ちがすっきりしていて美形と呼んでいい顔立ち。腰に巻いているのは黒い帯。数人しかいない黒い帯をしている人の中では圧倒的に若い。年齢は20代前半、仮に10代であってもまるで不思議じゃない。


「あぁ、彼女ですか・・・」


田原支部長の(あぁ)の部分に何だか妙な含みが感じられた。触れられたくなかったものに気付かれたというか、敢えてその事についてはスルーしたそうというか。まあ、(あぁ)の二文字からの私の勝手な想像と勘なのだけれども。


「アーリアです。アーリア・シノミヤ。今年たしか18歳になったはずです」


「シノミヤ?シノミヤって・・・あの・・・」


「はい。あの初代タイ支部長の四宮文二しのみや・ぶんじ先生のご後裔こうえいです」


“ご後裔こうえい”って時代がかった言い表しに、ちょっと普通じゃない気の使い方が感じられる。そのアーリアという名前の美しい女性は、美波さんと田原支部長の交わす言葉が、自分に関してのものであることにもう気付いているだろう。それにも拘らず、会釈をしたり挨拶をしたりというような所作を一切見せなかった。

美波さんが(睨んでいる)と表現したそっくりそんな感じの視線と態度は、あからさまな敵対心を感じさせるに十分だった。

アーリアさんとやらの眼に少しずつ緊張が膨らんでいくのが分かる。えっ、何?この緊迫感。なんだかとても気不味い雰囲気。でも何で?なんて思った矢先に、実に絶妙のタイミングで田原支部長が太く大きい声を発した。


「ランドリ!」


もう程なく美波さんに掴みかかってくるかのようだったアーリアさんの緊張が、この瞬間緩んだことに私はほっとした。



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