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美波店長とタイを旅行する(7)

楽しく書いてます。5月も楽しいです。


朝食後、ホテルから徒歩で10分ほどの所にあった商店街で、美波さんはお薬やらお香やら、そして日本で買うより圧倒的に安かった下着を、袋が両手一杯になるほど大量に購入した。以前美波さんの店で見た大量の下着は、こんな感じで購入されたものの一部だったのだろう。お買い物に要した実質の時間はたったの20分。あらかじめ購入する店に目ぼしをつけていたと思われる。実に淀みない効率的なお買い物だった。その一方で、かなりの時間を消費してしまったのが水着の購入。そしてそれは多分に私のせいである。


「菊元さんも水着買って一緒に泳ぎましょうよ」


そんな美波さんの提案が発端なのだが、この水着選びに私は大のつく苦戦を強いられることになる。

店頭に並んでいたのは、全て布の小さなビキニタイプの水着だったのだ。店のどこにもワンピースタイプの水着が見当たらない。生まれてこれまで、ビキニの水着なんて着たことのない私は、どれを選んでいいか全く思考回路が働かなかったのである。

美波店長が黒い小さなビキニを早々に選んだあとも、たっぷりとした時間をかけて私は悩んだ。

(私、泳ぐのは遠慮します)って選択も有りだったのだろうけど、今回を逃すとビキニ姿で泳ぐことなど、おそらくはもう一生ない。私にとってそれは、何故か人生の貴重な経験の一つを取り逃すような気がしてしまったのである。

そんな私の背中を少し押してくれたのが、あのわたるさんの言葉。ゴルフウェアをプレゼントしてもらった時のこと、一枚のメモ用紙に書かれていたあの言葉だ。


(菊本さんにはオレンジ色が似合うと思います)


そして私はややつやを抑えた派手過ぎないオレンジ色のビキニを選んだのだった。


一旦ホテルに戻ったのが11時をいくらか回った頃。少し早めの昼食を二人で取った。私も美波さんもしっかりと朝食を食べたため、サンドイッチとコーヒーのセットが量として丁度いい塩梅あんばいだった。このサンドイッチにもパクチーなる葉っぱが挟まれていて、実に後味が爽やかで、やや苦めのコーヒーとの相性も素晴らしかった。


「私は少し仮眠を取らせてもらいます」


部屋に戻るやそう言って美波さんはベッドに横たわった。美波さんの小さな寝息が確認できるようになるまでに、いくらの時間も経過しなかった。


会話がなくなったホテルの部屋はとても静かだった。29階の窓から見下ろす街並みは、まるで水位の低い灰色のいだ海。高い建物がまるで存在しない。一つ一つの建物の屋根は、赤やら青やら茶やらと色調豊かなのだが、これらを高い所から一望すると、土煙のフィルターを介することもあって全体として街全体が色を失うのだ。

遠くから車のクラクションが聞こえる。どの方向から聞こえたのかも判然とせず、まるで異次元の世界から生活音が漏れてきたような感覚になる。

ベッドに腰かけた状態で、止まっているかのようにゆったりと流れる時間に身を委ねる。

ふと窓の外を何かが横切った気配がした。程なくしてまた反対方向から空を横切る陰。鳩だった。日本で見る鳩と姿形が全く変わらない。何だか不思議だ。

さらに不思議と言えば・・・私は、右肩を下にして静かな寝息を立てている美波さんの方を向く。


美波さんの店を初めて訪れたのは約半年前。店に訪れる頻度だって決して多くない。客として通ったのはたったの3回。話す言葉は、お互いに今も敬語のまま。そんな程度の間柄なのに、家族とも仲の良かった友人ともしたことのない海外旅行を、いま一緒にしている。泊っているホテルまでも同室。本当にそのことを不思議に感じる。

一体なにを思って、美波さんはこの旅行に私を誘ってくれたのだろう。何か思惑があってのことなのか。いや、そんなことはないだろう。だって、お誘い頂いた時には、私がパスポートを持っているかどうかさえ、美波さんは知らなかったはずなのだから。


(私達二人が仲良しなんだ)なんて言ったら、まだ少し厚かましい気もする。どちらかが積極的に距離を詰めようとするような行動も、特に思い当たるふしがない。それでも躊躇なく内懐うちぶところに潜り込んでくるような美波さんの言動には、警戒心や疑念を抱かせるようなところが一切なかった。こういう対人距離の潰し方をしてくる人に、性別年齢問わず、私はこれまで出会ったことがない。

本当に不思議な人だと思う。そんな不思議なこの人を、好きか嫌いかと問われれば、私は欠片かけらも答えに迷わない。


(ホント、不思議な人だ)


そんなことを考えながら、私はこちらに向いている美波さんの細い背中を、しばらく見つめていた。昨晩からずっと点きっぱなしの空調の音が静かだった。




その白い建物は忽然こつぜんと現われた。相当に遠くからでも目視できる大きな建造物であったが、白い土煙があまりに酷かったため、それまで気が付かなかったのである。その建物に比類する大きさの建造物は辺りには一つもない。


16時ちょうどにホテルに呼びつけたタクシーに乗り込み、これを走らせること小一時間。昔アニメで見た(バビル二世)の(バビルの塔)のような現れ方だった。お父さん秘蔵のコレクションDVDで見たのだ。年代的に生で見たことはない。幼心に(将来は超能力者になりたい)と思ったものだ。

それにしても立派な建物だ。バンコク市内で見た高層ビルのような高さはもちろんないが、がっしりとして威厳がある。そしてどこかノスタリジックな雰囲気。この建物は一体・・・


「ここが柔心会のバンコク支部です。東南アジアでは一番大きな支部となります」


タクシーの後部座席に並んで座る美波さんが説明してくれた。


「柔気道開祖芝山惣十郎の高弟だった四宮ナニガシが武者修行でタイに来て、そしてこちらの女性と恋に落ち、そのままこちらに住み着いて柔気道を広めた・・・ってことになってます。当時の国王の命によりムエタイの選手と戦い、その激闘は後世に語り継がれる名勝負・・・なんて伝説もありますが、どこまで真実か分かりません。昔の逸話のたぐいです。まあ、柔気道がこの国で広まっているのは事実ですし、全くの法螺ほらではないかも知れませんが」


う~~ん、いっぱい分からないことがあります。まず柔気道なるもののイメージが全く沸いてません。四教よんきょうだけは一応体験しました。ワタルさんが美波さんに投げ飛ばされるシーンも二度ほど見ました。ムエタイって何?それって美味しいの?って感じです。

全く反応の仕方が分からないままスルーしていると、タクシーがその厳かな建物の前に停車した。


「じゃあ、行きますか」


1000バーツ紙幣を運転手に手渡して、美波さんはタクシーを降りた。私も続く。

その厳かでどこかノスタルジックな建物の重たそうなドアを、美波店長はまるで躊躇ちゅうちょする様子もなく一気に押し開いた。



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