美波店長とタイを旅行する(2)
海外旅行はあまり好きではありません。タイは好きです。
(うわ~、紫色だ!一面)
空港に降り立った時の第一印象は、まずそれだった。
壁、床、広告、航空会社従業員の衣装。みんな揃って紫色。
そんな私の関心に店長は気づいたようだ。
「紫色って、王家のシンボルカラーなんです。だから紫一色なんですよ。でっ、あの写真の人が今の国王ね」
(今の国王)という人物が映された大きなパネルを指差して店長が説明してくれた。
『Welcome to Thailand』
国王自らが歓迎してくれている。パネルだけど。日本人にも親しみが持てるような骨格と肌の色。詰めエリの黒い制服を凛と着こなしている。力強い眼光であるが、それでいて優しさも同時に感じさせる眼である。
「何だか人気のありそうな王様ですね」
「うん、すごい人気。ところで菊元さん、“エンペラー”って単語分かる?」
“エンペラー”?直訳すると“皇帝”ですか?
「そう、皇帝。いま世界で”エンペラー“の称号で呼ばれるのはたった二人だけ。一人がここの国王。そしてもう一人、誰だか分かる?」
えっ、誰だろ?どこかの国のサッカー選手って意地悪クイズじゃないですよね。
「日本の天皇ですよ。”エンペラー“は世界でこの二人だけ。だから、この国では日本の天皇陛下も尊敬されてて人気もあります。タイが親日国家なのには、実はそんな理由もあります。まあ、ただの雑学です。あぁ、それにしてもいい匂い。私この匂い、大好き」
店長が心地よさげに大きく息を吸い込む。
空港内に漂うのは新鮮なようで、どこか懐かしくも思える涼やかな匂い。かなり強いが決して嫌な香りではない。なにかの柑橘系植物の匂いだろうと想像できる。それにしても空気の違いだけで、ここが異国の地であることがはっきりと感じ取れる。何だか不思議なものだ。不思議と言えば、この香りを懐かしいと感じる事だって少し変だ。だってタイに来るのはこれが初めてなのだから。
(あっ!)
ふいに懐かしいと感じた理由が分かった。美波店長のお店で、夏の間に焚かれていた香の匂いと通じるところがあるのだ。
「それにしても・・・寒ぅ~~~~」
私の横で黒いタンクトップ姿の美波店長が、両腕を組んで震えた。
(向こうの気温は31℃の予報だから・・・)
そう言って美波店長は機内のトイレでジーパン&タンクトップという店内を動き回る時のいつもの軽装に着替えていた。空港の建物全体に、これでもかという程の冷房が効いていた事が彼女にとっての誤算であったようだ。
そう、ここはタイ国スワンナプーム国際空港。9連休5日目の深夜に、私と美波店長は、このタイの地に降り立ったのである。
関西国際空港を日本時間の16時ジャストにフライトして約8時間。日本時間では午前0時過ぎであるはずだが、2時間の時差があるため、こちらでは夜の10時を少し回ったところ。
普段なら、もうベッドに潜り込んでいる時刻であるが、いま眠気はまるで感じていない。
日本時間の18時、つまり飛行機が地上を離れてから2時間後に運ばれてきた食事を、美波店長は美味しそうに平らげた。それも二人分。そして店長は、そのままスヤスヤと寝入ってしまった。それにつられる格好で、私も機内で3時間強の睡眠をとれた訳なのである。やっぱり食欲と睡眠欲は伝染するらしい。
「え~~と、バゲッジクレームは向こうか。さっ、行きましょう、菊元さん」
腕に抱えていた薄目のジャケットを羽織り、少し落ち着いた店長が私を促す。
いきなり(タイに行きましょう)と言われた時には少し動揺したが、それは店長の只の思い付きばかりじゃなく、元々そういう予定だったそうなのである。
(仕事も兼ねて・・・)という事らしいのだが、それがどんな仕事なのかは私が知る由もない。
バゲッジクレームでは色とりどりの旅行バッグが次々とコンベアで流れてくる。赤ん坊なら二人は十分に入れる程の大容量のバッグが圧倒的に数多い。
待つこと約10分。前後を大きなバッグに挟まれ、肩身狭そうに私の白い旅行バッグが出てきた。所詮は2泊の旅行なので、3日分の着替えが主な私の荷物である。それよりは少し大きい美波店長の黄色いバッグも、程なくして流れてくる。
ひょいと細い腕でそのバッグを持ち上げると、(急げ~)と口にしながら、速足で店長は歩を進めた。私の方が遥かに小さい荷なのに、付いていくのがやっとって感じ。
入国審査を行うゲートには、早くも旅行者が群がり始めていた。店長が急いでいたのは、どうやらこれが原因らしい。少し肌の浅黒い女性職員が不機嫌そうに座っている。
機内で記入した何ちゃらカードってのとパスポートを、ひょいと店長が差し出す。無愛想職員はほとんど写真の確認すらせず、(バンッ)と大きな印鑑みたいのを乱暴にパスポートに押して返した。私の場合もほとんど同じ。全く視線をこちらに向けなかったような気がする。ホント、無愛想な事この上ない。タイが微笑みの国だなんて、一体誰が言った?
“EXCHANGE”と看板のあったキヨスクみたいな所で2万円をタイ・バーツに換金した。3日間の滞在でそれって少なすぎやしないかと思ったが、店長が2万円だったので、(ワタシ以上に使う気かい!)って思われることに少し気が引けて、私も2万円としたのである。足りなければホテルなんかでも換金は可能なのだろう。そんなところを店長が抜かるとは思えない。
「出口は4階だったかな~」
そう口にしながら店長はスマホを操作している。多分電話のモードを“海外”に設定しているのだろう。この国で私が電話を使うことはないだろうけど、それでも一応海外モードに設定した。程なくして“今の滞在地はタイ国”と日本語で表示された。液晶に表示している現在時刻も現地時刻に変わった。あ~ほんとにタイに来ちゃったって実感がちょっとだけ沸いた。
さて、これからどうするのだろうと思っていると、店長がスマホを耳に当てた。どこかにコールを入れているようだ。こんな時間なのだから、今日はこのままホテルに入るのだろう。この旅行、フライトチケットの段取りからホテルの予約から、何から何まで店長にお任せである。機内で何ちゃらカードを配られた時に、(ホテルはレムトンホテルって名前だから)と店長に教えてもらって記入したので、私に分かることと言えば、このホテル名くらいなのだ。
「あっ、私、美波。今空港のゲート出ました。うんうん、4階・・・ゲート17・・・了解。ご足労申し訳ないです。では後ほど・・・」
話の内容からしてお迎えの人が来てくれているようだ。そしてやり取りは日本語。
お相手は日本人なのか、それとも日本語が堪能なタイ人なのだろうか。それすら私には分からない。変わらず速足で歩く店長の後ろを、私は黙ってついていった。
“ゲート17”の自動ドアが開くや、ムッとした温かい外気の壁が顔を押した。
南国の湿った空気。そう言えば(こっちの気温は31℃)と店長が言ってたなと思い出す。今日の昼過ぎに自宅を出た時の外気温が5℃だったので、結構な温度差だ。軽く人体実験をされてる気分。旅行客と思われる周りの人達も、屋外に出るや一斉に上着を脱いでいた。
「もしかして、あの車かな」
店長の視線の先に止まっていたのは、濃い緑色の大型ワゴン車。空港から洩れる灯りを反射して光っている。おや、何だか日本語が書いてある。
『どこまで行っても可能 ニホンゴ可能』
何だ?そのヘンテコな日本語。まあ意味は通じるけど。
その時、この緑色の車の後部のドアが開き、一人の男性が下りてきた。ずんぐりとした小柄な男性。背が低い。女性としても小柄な店長よりは少しだけ高そうだけど、163センチの私よりは間違いなく低い。髪の両側に白いものが混じっている。おじいさんと呼ぶのは失礼だろうけど、かなり年配の人だ。50台半ば、そんなところが私の予想。
「サワディー・カー~~~」
そんな店長の声が横で聞こえるや、ほとんど自分と同じ身の丈のこのおじさんに店長が抱き付いた。それこそチューでもしそうな勢いだ。えぇ~、そういう関係?まさか店長の彼氏?もしかしてオジサン好きですか?それとも、これがこの国の普通な挨拶なのでしょうか?それなら私もハグしとかないとマズイかしら?分からん。教えて、店長。
「こちら、ヤナギさん。日本企業のタイ工場に勤めてんの。こっちに来た時にはいつもお世話になってる」
満面の笑みで店長が紹介してくれた。男性もにこやかに笑ってくれている。ふ~ん、どうやら男女の関係と言う訳ではなさそうだ。
「菊元と申します。この度はお世話になります」
いきなりハグされないか不安になったので、ほとんど直角に腰を折って機先を制した。この体勢ならハグできまい。
「ヤナギです。ようこそタイランドへ」
オジサンとしてはやや高めで、なんだかとても柔らかい声だった。




