美波店長とタイを旅行する(1)
新しい章です。
「いらっしゃいませ~~」
変わらず爽やかな声色だ。時にドスの効く低音に変わることを私は知っているけど。
「こんにちは、菊元です」
「は~い、菊元さん、いらっしゃいませ。お待ちしてましたよ」
1月のウィークデイ。それも真っ昼間に私は美波店長の店『整体シバヤマ』に入店したのだ。
「平日のお昼間にお越し頂くのって珍しいですよね」
「はい、初めてです」
こういうことだ。国の推奨する“働き方改革”とやらの影響で、私の勤める商社では、今年から年間12日の有給取得が社員に義務付けられている。さらに5日間の連続休暇を少なくとも1回取ることまで、半ば強制化されている。有給休暇の強制化って何だかおかしいって思う。
経理課に所属している私にとっては、年度の締月である3月が一番の繁忙期。実労日数が少ない2月もかなり忙しい。従って、休みを取るなら今しかないって感じで、この1月に思い切って5日連続の有給休暇を取得したのだ。土日に挟まれて9連休。社会人になって最長の連続休暇である。
「お勤めの会社の方は今日お休みですか?それとも休みを取ってでも施術を受けなければいけない程、体の調子が芳しくないとか・・・」
「いえ、体はすこぶる快調です」
9連休を取ってみたものの、それなりに開放的な楽しい気分に浸れたのは2日目まで。この2日は普段よりも数時間余計に惰眠をむさぼり、ベッドを抜け出てからはテレビを点け、見るとはなしに番組をはしごして、20代らしからぬダラダラとした過ごし方をした。
これと言った趣味もなく、ボーイフレンドの一人もいないという悲しい現実を、その二日間で実感する羽目となってしまった訳であるが、まあそれなりにのんびりとは過ごせた。
しかし、連休3日目にして、ついにと言うべきか早くもというべきか、暇を持て余し始めてしまったのである。暫し考察して、まずはリラックスするところから休みをやり直そうと、美波店長に予約の電話を入れたのが今朝の事なのだ。
「まずは店長のマッサージを受けてリラックスしてから、お休みを満喫しようと思いまして・・・」
そんなセリフを口にしてみたものの、長すぎる休暇を満喫できるだけの体力や行動力が自分にあるかは甚だ自信がない。いや、そうじゃない。決して自分に体力や行動力がない訳ではないのだ。自分に不足しているのは、遊び心や好奇心といった、そういう類のものではないか。知識や体力や学歴や仕事や、それらがその人の血肉とするなら、遊び心や好奇心や、趣味や友人や、そういったものが人の皮膚なのだろう。そして魅力のある人の皮膚は総じて色鮮やかで豊かに盛っている。美波店長が正にその典型なのだ。偉そうに語るほど、店長のことを知っている訳でもないけど。
「はい、分かりました。それじゃあ、しっかりリラックスして頂くお手伝いをしましょう。じゃあ、いつも通りうつ伏せでお願いします」
施術室内に嗅ぐわっている香の匂いは、夏の頃と変わっていた。あの頃は部屋の空気を吸うや、たちまち涼やかな気分になったものだが、今漂っている香りは、むしろ不思議な温かさを感じさせる。こんな細やかな気遣いも、美波店長の皮膚の色の一つなのだろう。
「じゃあ、まずは足から始めますね」
美波店長がぐいぐいと私の両の踵をベッドに押し付けた。初めてここに来店した時、自分の両足の踵の位置がまるで揃ってないことに驚いた。少し痛い思いをしたが、このバランスのズレを整体してもらってからというもの、あれだけ悩み続けていた肩凝りの症状が、今ではほとんど出ることがなくなった。気温も下がり血流も悪くなりがちな秋冬に、全く肩凝りに煩わされることのなかったのは、一体いつ以来だろうと思う。
「うん、体のバランスは悪くないですね。左右均等が取れています」
「以前はひどかったですか?」
「それはもう・・・よくこんなバランスで真っすぐ歩けてるなって思う程でした」
そう言いながら今度は薬指を多少強く引っ張られる。この施術をされると不思議なことなのだが、太ももから背中、そして首筋に至るまで、体全体の筋肉が引っ張られる感覚になる。その間に店長が触れているのは小さな足の薬指一本だけなのだ。
左脚の薬指を摘ままれ、ぐぃ~~と引っ張られる。右のこめかみの筋肉が突っ張る感覚が生じる。
「すごく不思議です。左脚と右のこめかみって体の対角線というか、一番離れているところなのに、そこが一番ジンジンします」
「人間の体って、そんなものです。別に不思議じゃありません。でも人によっては、左脚を引っ張ると左のこめかみがジンジンする人もいます。菊元さんの場合は、体の連携が背中でクロスしているんです」
店長の説明は、私には少し難しかった。あまり深堀りせず(そうですか)と答えた。
そして暫しの沈黙の時間。今日は店長の口数がやや少ない。私が(リラックスしたい)と初めに言ったもので、気を使われているのかも知れない。自分から話し掛けるのは、昔から得意ではないが、それでもこの店長には話しておかねばいけないことがいくつかある。
「洋服とかお世話になったお見合いの件なんですが・・・」
「はい」
「お付き合いするという所までは至りませんでした。色々とお手を煩わせたのにごめんなさい」
「いえいえ、菊元さんが謝ることじゃないですよ。所詮結婚なんて縁の問題ですからね」
決してふられた訳じゃない。母の話をそのまま鵜呑みにすると、相手の男性はずいぶんと私の事を気に入ってくれて、(ぜひ結婚を前提にお付き合いしたい。和歌山にくるのが嫌なら自分が大阪に引っ越してもいい)とまで言ってくれたらしい。この男性の言葉に強く反応したのが向こう側の親御さんで、(大事な跡取り息子だから・・・)と、極めて丁重なお断りの連絡があったという。
二枚目とかカッコいいとかいう表現は、お世辞にもできない男性だったが、いかにも優しそうなその眼差しは決して嫌いじゃなかった。もう少し彼のことを深く知る時間的猶予があってもいいとも思ったが、こんな事も美波店長の言うところの“縁”ってやつなのだろう。
「まあ、ゆっくりと素敵な男性を探して下さいな」
そう言う店長だって、今も独身でいるのが不思議なくらいの素敵な女性じゃないですか。
その理由を聞いてみたい気もするが、単なる私の好奇心の域を出ない。ただの好奇心で店長のプライベートを詮索するのは止めにした。
背中の筋肉が張られたり緩められたりしている。心地よい刺激だが、この刺激も足の薬指一本を媒体にしての刺激なのだ。首筋から背中にかけて、もうホクホクと温まり始めている。全く店長の技術の高さは天井知らずだ。
「ゴルフの件ですが・・・」
「・・・はい・・・」
お互いの言葉と言葉に挟まる沈黙は、いつになく長い。
「実は・・・ベストスコア・・・出ました」
「へぇ~・・・それはそれは・・・おめでとうございます・・・」
たっぷりとした間をはさんだ店長との会話。私はこの時、もう2年も会っていない3つ下の弟のことを思い出していた。
私が小学5年の時に実家を改装するまで、この弟とは家族で(子供部屋)と呼んでいた部屋で、二人並んで布団を敷いて寝ていた。ぽつりぽつりと交わされる取り留めない会話の間が、だんだんと長くなってゆき、そしてどちらからともなく眠りに落ちる。穏やかで温かい幼き日の日常の記憶。いま弟は元気してるのかな・・・なんて考える。考えながら店長への報告を続ける。
「ベストドレッサー賞・・・頂きました・・・参加者全員の・・・投票でして・・・お陰様で・・・」
「それは・・・女性としては嬉しいですよね・・・是非とも今度、ワタルに直接伝えて下さいな・・・喜ぶと思います」
ワタルさんの名前が出た瞬間、私の背中がピクリと動いた。店長には内緒にしているが、今年に入ってから2回、私はワタルさんとランチをご一緒している。
勘の鋭い店長さんのことだ。私の背中の(ピクリ)で何かを察しないかと、少し不安になったが、店長は特に何も口にすることはなかった。
店長の指がいつの間にか私の背中に直接乗っかっている。子守歌のような心地よいリズム。まるで私の鼓動と合わせてくれているかのような安心感。なんだか涙が出そうになる。
背中の右側、やや下の方を指で押さえて店長が言う。
「最近はお通じも順調のようですね。余分なものが溜まっていません」
店長の施術を受けるようになってから、まず変わったのは本来の目的であった肩凝りの症状が出なくなったこと。それと関連しているかどうかは分からないが、決まって肩凝りとセットで出現していた片頭痛も、全くと言っていいほど最近ではない。さらに付け加えると便秘の改善。こちらの方は、ほぼ毎朝しっかりと排出されるようになった。
「最近は全く便秘知らずの体です。今朝もバナナ2本分はたっぷり出しました」
小さくカラカラと、店長が乾いた笑い声を漏らす。
「ウンウンさんって実は素敵な子で、日常生活の垢や憂いなんかも一緒に出してくれるんですよ」
一つの例えなのだろうけど、店長独特の抽象的な比喩が、不思議と心地よく腑に落ちる。
今度は首筋辺りを指で圧迫されている。全く痛さは感じない。普通のマッサージの感覚で言えば、少し力が弱すぎると思えるくらいの加減だ。決してそうでないと分かるのは、血流が良くなっていくのがリアルタイムに実感できるからに他ならない。
以前、店長は(お風呂に入って血流を良くするのは、ポンプで強制的に血を送るようなもの。マッサージとは血管を丁寧に掃除するようなもの)と、マッサージの効用を判り易く例えてくれた。今ではこの意味がよく分る。施術の間中、痛いと感じたり体が圧迫されているストレスを覚えることが、この店長の施術には一切ないのだ。
気を抜くと深い眠りに落ちてしまいそうになる。
右手を店長に取られた。手を取られるのは初めてのことだ。肘の骨の突起横辺りに親指が乗っている。強い力ではない。触れていると言うよりは強く、押さえているという程強くない加減。それでもビリビリと右腕全体に電流が流れる。その場で親指が優しく小さな円軌道を描くと、一気に上半身の右半分が温かくなった。
「・・・ポカポカして・・・とても気持ちいいです・・・」
「ありがとうございます」
「このまま眠ってしまって・・・起きたら9連休が終わってたって感じになりそうです」
「あはは」
店長が笑いながらベッドの周囲を半周し、今度は私の左手を取る。右側と同じく、体の左側がビリビリしてポカポカ。
「とても気持ちいいです」
全く持って語彙の乏しい表現だが、“美味しい”としか表現しようがない美味しい食べ物だってあるのだろう。私の表現力が乏しいだけの話ではきっとない。
「体が温もってきたら仰向けになりましょうか。次はお顔のマッサージに移りましょう」
お顔のマッサージ。これも今回私が楽しみにしていた施術の一つだ。以前はたった15分程の施術で、自分でも分かるほど顔が小さくなったことは本当に驚きだった。もう眠気眼になっている私は、億劫に体を翻す。翻すやちょうどいい温度の蒸しタオルが私の顔に乗る。何という手際の良さかと思う。
「タオル、熱くないですか?」
「はい、大丈夫です」
「少し蒸らしてから毛穴のお掃除もしておきましょうね」
毛穴のお掃除。2回目に来店した時、ごっそりと毛穴に詰まった汚れを、店長さん特注だという道具で掃除してもらった。その時には、おぞましいほどの汚れが取れた。以来、毎朝と帰宅後の洗顔は、一切の手を抜いていない。
「よろしくお願いします」
またまた沈黙の時間がゆっくり流れる。
目の上にはタオルが乗っているが、鼻と口の部分は空いているのでうつ伏せの時よりも会話はしやすい。沈黙が苦痛って訳ではないが、それでも私は店長に話しかけた。
「行動的な人なら、それだけ長い休みだったら、旅行に行ったり学生時代の友達と会ったりなんてするんでしょうね」
少しだけ自嘲気味に言ってみた。
「行動的でないことが悪い事だなんて思いませんよ。それこそ休日の過ごし方なんて、人それぞれでいいんじゃないですか」
「でも・・・正直、暇を持て余しそうで・・・お恥ずかしながら・・・」
入店した時よりも、少し私は正直になっていた。僅かに会話に間が空いた。
そう思った瞬間、何故だか目の上に置かれていた蒸しタオルが取り除かれた。
と、そこにあったのは、にこやかな笑みを含んだ店長さんの顔。
「菊元さん、明後日から一緒に旅行しません?タイに・・・」
(へっ?)
超突然の店長のお誘いに、私は大いに戸惑った。




