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旅立ち

長らくのご愛読ありがとうございました。


ヤナギ


今季の冬は寒かったが、もう暖房器具は必要ない。

香の香りが程よい施術室で、美波さんの施術を受けている。いまの私はうつ伏せの状態だ。絶妙の加減の圧迫が、私の全身をリラックスさせてくれる。


3畳の狭い部屋の隅には、私の白いキャディーバッグ。手持ちのバッグで一番大きい物。

1週間分の着替えとノートパソコンと付属備品一式。それらが主な中身。


「九州ですか。遠いですね」


穏やかで優しい美波さんの声色。この声に、これまでどれほど癒され、そして勇気をもらったことだろう。


「いえ、新幹線を使えば、ものの3時間弱です。意外と近い感じです」


所要時間に関してはそうだ。しかし毎週道場で指導を受け、ときに整体の施術をしてもらい、ときに一緒にチーズバーガーを頬張り、ときに良き相談相手になってもらい・・・そんなこれまでの付き合いを考えると、確かにその距離は遠くなる。物理的にも心理的にも。否定できない。


「寂しくなりますね。道場の人達も寂しがることでしょう」


そんな美波さんの湿っぽい言葉に、鼻の奥の方がツンとする。


4月1日付け。私は九州支社総務部経理課長に就任する。それを西日本総務部長から直々に聞いたのが2週間前。全国を見渡してもまだ珍しい女性社員のライン課長就任だ。

そして着任を1週間後に控えた今日、私は九州に旅立つのだ。そうは言っても、これまでの仕事の引継ぎやら住んでいたワンルームの引き払いやらで、4月中頃までは九州と大阪を行き来することになるのだろう。


「それにしてもいい体になりましたね。とても筋肉が柔らかくて、その量も申し分ありません」


「あっ、はい。美波さんのお父さんにも、同じことを言われたことがあります」


「父の件では、本当に色々とお世話になりました。お礼のしようがないほど、お菊ちゃんには感謝してます」


9カ月前、美波さんと美波さんのお父さんは、同じ日に同じ格闘技のリングに上がった。

美波さんのお父さんは、まだ10代の若き天才キックボクサーと15分を超える激闘を演じた。勝ち名乗りを受けた時も、立っているのがやっとという状態だったが、セコンドの人達の肩を借りることすらお父さんは拒否し、自分の足だけを使い、選手控室へ戻ったらしい。

その後、会場の外で、この親子2人は偶然に顔を合わせ、ほんの数秒、見つめ合っていた時間は、途方もなく美しく、優しい時間だった。

どちらからともなく軽くグータッチ。たったそれだけの親子の交流。この時の美波さんの、少し恥ずかし気で、どこか誇らしげな笑顔を、私は一生忘れないことだろう。


「私が訊くのもなんですが、ワタルとはどうなりますかね?」


いま私は渉さんとお付き合いさせて貰っている。いつから付き合い始めたのかなんて問われると、そこらのところは実に曖昧であるが、それでもお付き合いしていると言って嘘にはならない関係だ。そんな事、一度も美波さんに話したことはない。それでも気付くのが美波さんなのだ。


「はい、しばらくは遠距離恋愛になるかと思います。焦ったり焦らなかったりと言う年齢でもないですし。お互いに」


渉さんとの関係を隠そうとしたり、ちょっと照れくさくなったりという気持ちがまるで起こらなかった。だから私は素直にそう言った。

美波さんに初めて会った時、まだ20代だった私も、今年33才になる。つまり5つ年上の美波さんは38才になる訳だ。


「そうですか」


小さく美波さんが呟いた。


「はい、終わりました。お疲れ様でした」


あっと言う間の60分だった。私はベッドから体を起こし、立ち上がる。身体が羽のように軽い。


「ありがとうございました」


「こちらこそ、ありがとうございました」


わずかな沈黙。何かこちらから喋らないと、泣いてしまいそうになる。

さて、何を喋ったらいいのだろうか。


「来週から、まるで知らない人たちと一緒に仕事をすることになります。なにか上手に付き合っていくコツとか無いでしょうか?」


何か話さないといけないなんて、自分を追い込んで、苦し紛れに出てきた質問だ。

それほど深い意味があった問いじゃない。


「それを私に訊かれても困るのですが。そうですね、お菊ちゃん、私の目を見て下さい」


意味は分からないが、言われた通り、私は美波さんの目を見る。静かに時が流れる。


「はい、私はお菊ちゃんの事を信頼することができます」


信頼できる?え~と、どういう意味でしょう?


「いま、お菊ちゃんの背筋はピンと伸びています。視線も真っすぐです。そんな姿勢と視線を持っている人は、信頼するに値する人です。逆に背筋が丸まっている人や、視線が真っすぐでない人は、少し気を付けて付き合った方がいい場合が多いです」


なるほど。シンプルな人の見分け方だ。実に美波さんらしい意見だとも思う。


「いま私が言ったことは、自分に向けても同じです。困った時や悩んだ時は、自分の背中が丸まっていないか、まず注意してみて下さい。そして人の目を真っすぐ見ることができているか。それができているなら、悩む必要はありません。自分を信じて、そのまま突き進んで大丈夫です」


はい、何だかとっても勇気が湧いてくるような気がします。


「真っすぐな姿勢でいると知恵と勇気が湧いてきます。丸まった姿勢では愚痴と後悔しか出てきません」


はい、いま私が真っすぐに立てているとすれば、それは本当に美波さんのお陰だと思います。


「それにしても、大きな荷物ですね。重たそう」


まあ、一週間分の着替えとか入ってますし。パソコンとバッテリも重たいですし。ああ、それから・・・


「美波さんから頂いた道着も入ってます。向こうで少し落ち着いたら柔気道の道場を探してみようと思っています」


「その必要はありません。福岡の中里支部長には、私の方から一報入れておきます。私の大切な友人だから、そのつもりで出迎えろって」


美波さんの友人。そう、これが大変だったのだ。

美波さんが、世界最強と呼ばれていたルナ・ワイズマンを打ち負かし、リングの上で一人立つ美波さんの胸に、ぼろぼろと涙をこぼしながらこれに飛び込んだ私。その姿が、翌日のいくつかのスポーツ紙の一面を飾ったのだ。

この日、私は有給休暇を取っていて、会社に出勤したのはその翌日の火曜日だったのだが、事務所に入るやスポーツ紙を片手に持った数人の社員に囲まれる羽目になった。

興奮した声で何やら私に問う同僚達の言葉を簡潔にまとめると、(アンタ、芝山美波のなんなのさ?)ってことになる。

しばし考察し、一言だけ(友達です)と答えたときの私は、本当に誇らしい気分だった。



新幹線の時間が迫っていた。

今日美波さんと交わせる会話は、あと二言三言だろう。でも、その二言三言が口から出てこない。代わりに出てきて止まらないのは、私の眼からこぼれてくる涙の粒。

そんな私の顔を正面から笑顔で見つめていた美波さんの眼から、たった一粒だけ、涙が零れ落ちてきた。


「世界最強の人を泣かせることができるなんて、私も少しは強くなれたのでしょうか」


私の涙声に、美波さんの笑顔が、さらにもう一転がりした。


「駅まで車で送りましょうか?荷物も重たそうですし」


「ありがとうございます。でも新しい旅立ちの第一歩は、ちゃんと自分の足で始めたいので、お気持ちだけ頂戴します」


「そうですか。では・・・」


美波さんが、右手を差し出した。これを私は強く握りしめる。両手で。

世界最強との呼び声高き人の手は、まるで子供の手かと思う程に小さく、そして温かかった。



山下ビルを下から見上げる。3階の窓を。もちろん、美波さんの姿は確認できなかった。

いま私の背筋は・・・うん、ちゃんと伸びている。


株式会社□□商事 九州支社総務部経理課長・・・あっ、この肩書を使うのは来週からだ。それじゃあ・・・


「全日本柔気道連盟柔心会本部初段補 菊元加奈、行って参ります」


うん、大丈夫。


 



初回投稿が2020年9月。きっとエタると前書きでも記載した私の予想は覆され、このたび完結に至りました。長らくの応援ありがとうございました。


2020年、どんな年だったっけ?って振り返ると、これも長期に渡り投稿させて頂いた“魚釣り”を題材にした愚作『百夜釣友』が、いよいよ完結の目途が付いた頃。それじゃあ、次は何書くかしら?って感じで、癒し系マッサージ小説にチャレンジしてみたいなとキーボードを叩いたのが、本作のルーツです。この作品の誕生には、以前本サイトでご活躍されていた“木の芽”様の『宿の老主人の耳掃除』という作品が強く関与しています。


(こんな読者が心地よいと感じる作品を書いてみたい)


そんな私の願望は、己の実力不足を理解していなかったバカ者の高望みだった訳ですが、それでもお寄せ頂いた83件のご感想の全てが、大変に有難いものでした。


お読み頂いた方はお気付きかと思いますが、“癒し系マッサージ小説”を目論んだ本作は、いつの間にかむしろ“格闘技小説”にその姿を変異させました。これには、やはり私の半生、つまり“魚釣り”と“格闘技”ということになるのでしょう。


さて、本作の主人公“芝山美波”ですが、はっきりとしたモデルが存在します。

以前、私も所属していた“神〇(こうべ)格闘技サークル”なる団体に、ニックネーム“ミナミ”の極〇空手有段者の猛者がいたのです。すらりとした体型に艶々の黒髪。涼しい切れ長の目尻。わたしヤナギも何度か上段蹴りでノックアウトされました。

彼女の職業は整体師という訳ではなかったのですが、“神〇(こうべ)格闘技サークル”のミナミさんと、実に雰囲気の似た美しい女性が、神戸市は〇宮の整体の店に実在したのです。

これは実話なのですが、この整体の店で発生したトラブルに私は遭遇しました。

お客とある女性店員との些細な小競り合いだったのですが、ついに拳を振り上げた男性客の腕を、このミナミさん似の女性が宙で止めたのです。美人であるが故、それはすごい迫力でした。


で、“神〇(こうべ)格闘技サークル”のミナミさんと〇宮の整体師さんを合体して2で割ったのが“芝山美波”ということになります。

今年に入って、この整体の店に久方ぶりに入店して見たのですが、この整体師さん、少し体調を崩して故郷の方に帰られたようです。一日も早い回復を祈らずにはいられません。


さてさて、私の書く文章が、果たして作品と呼べるものかは別として、本サイトへの投稿はある意味生活の一部となってしまいました。

次作はどうしようかと悩む今日この頃。いや、悩んでません。楽しく苦悩しています。


長らくのご愛読、改めて御礼申し上げます。


2023年5月 ヤナギ


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― 新着の感想 ―
[一言] いい物語でした…。お菊ちゃん、無事に美波さんから旅立ちましたね。友達関係って、切れてしまうことが多い中で、お菊ちゃんは無事に昇華し、成長して二人で旅立っていった。その姿が素晴らしかったです。…
2023/05/31 11:56 退会済み
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