美しき生物(7)
本編完結です。次回最終回です。
自分で書いて自分で泣きました。
長らくの応援有難うございました。
眩し過ぎるリングをバックにして、溝田さんが歩んでくる。私達がいま立つ通路奥へ。
その顔に浮かんでいるのは達成感に溢れた満面の笑み。対照的に美波さんの眼は、たっぶりとした涙がいまにも零れそうだ。
もしかしたら初めて見る美波さんの涙かも知れない。
私達は通路の奥の方から、溝田さんのリベンジマッチを見ていた。セコンドに付く予定だったのだが、それは叶わなかった。溝田さんの次の試合に、美波さんが出るからだ。
溝田さんのセコンドに付けないことに、美波さんは相当強く抵抗した。
(私はキコちゃんのセコンドを務めるために、ここに来たのに)
美波さんが言うには、溝田さんのセコンドを勤めて、そのままリングに居残って試合に臨めばいいって事だったけど、ここは溝田さんが美波さんを戒めた。
(美波はルナとの試合に集中して)
それでも納得いかないと言う表情の美波さんにダメを押したのが、(美波がいなければ私はステイシーに勝てないとでも思ってるの?)という溝田さんの一言だった。
そして私達2人は、溝田さんのセコンドをコーチ一人に任せ、通路奥で溝田さんの戦いを見守ったのである。
笑顔の溝田さんと涙顔の美波さんとのハイタッチ。思わず私も眼の奥の方が温かくなる。
それは見事な勝利だった。ステイシーのパンチを、紙一重で躱し、すぐに溝田さんは相手の懐に潜り込んで、そしてステイシーを投げた。そのまま瞬殺という訳にはいかず、1度は立ち上がっての攻防に戻ったが、次に寝技に持ち込んだ瞬間に、溝田さんはステイシーの肘関節を極めた。寝技に持ち込むきっかけとなった技は、柔心会の道場で繰り返し練習していた“鶏捕”だった。
「続けよ、美波!」
じつに力強い溝田さんの声。
「もちろん」
美波さんの返信は大声量ではなかった。それでも覚悟の座った頼もしい声だった。
ほんの小一時間前の出来事。
上原選手との面会を終え、メディカルルームを出た私達を待っていたのは高木だった。
もちろん、この時点では上原選手と美波さんの会話の内容を、彼は知らない。
「上原選手との面会はどうでした?」
「やるわ」
極めて短いその美波さんの言葉で、高木は全てを悟ったのだろう。美波さんをリングに挙げるのは、予てから高木が熱望していたことだ。飛び上がらんばかりに喜ぶのかと思いきや、高木は意外にも厳しい表情となった。
「相手は、あのルナ・ワイズマンですよ。主席師範はご存じないかも知れませんが・・・」
「いま世界最強って呼ばれてる娘でしょう。キコちゃんに教えてもらった。だから?」
あの高木が少し困ったような顔になった。でも、それは一瞬ですぐに冷静沈着で無機質な高木の顔に戻った。いつもの高木の顔だ。
「柔心会の会長はご存じなのでしょうか?」
「柔心会も会長も関係ない。今日ルナとやらと戦うのは私。芝山美波個人」
その美波さんの言葉に、大きく“ふぅ~”と息を吐いた高木。
「よろしい。その覚悟が主席師範にあるのでしたら、こちらとしても問題はない。では、私も一仕事済ませましょう」
高木のいう一仕事の意味を私達が知ったのは、いったん私達が選手控室に戻った時に、モニタに映し出されていたリング上の光景に因ってである。スーツ姿の高木がリング中央でマイクを握っていたのだ。
「R-ORの高木と申します。実は、皆様に残念なお知らせをせねばなりません。ルナ・ワイズマンとの対戦が予定されていた上原雅代選手に、本日発熱が認められました。今日、彼女はリングに上がれません」
生じた観客の深いため息が、上原選手とルナの試合を皆が楽しみにしていたことを物語っていた。
「その代わりと言う訳ではありませんが・・・」
絶妙の間をおいて、高木が発したこの言葉に、騒めいていた観客が一瞬で静かになった。
2万人を超える観客が、次の高木の言葉を待っている。
「あのオリンピックメダリスト、溝田紀子をして“自分の10倍強い“と評した全日本柔気道連盟柔心会主席師範の芝山美波先生が、本日この会場に見えられています」
静かに、少しずつ、観客のどよめきが大きく成長していく。
「ルナ・ワイズマンと芝山先生、お二方にエキシビジョンマッチの提案を致したところ、両名とも、これを快諾してくれました。よって・・・」
その後の高木の声が聞き取れなくなる程、観客のどよめきは大きなうねりとなっていた。
「飽くまでエキシビジョンです。それでも真剣勝負であることに違いありません」
そんな高木の言葉は、観客の歓声に揉みくちゃにされ、ほとんど私には聞こえなかった。
眩しかった。私達の視線の奥。煌々と照らされた四角いリング。つい数分前まで、溝田さんが戦っていたリング。さらに数十分前には、美波さんのお父さん、小山順一氏が若き天才キックボクサーを相手取り、ぼろぼろになりながらも勝ち名乗りを受けた戦場。
暗い通路の奥から見る明るいリングは、地球外から飛来してきた未知なる乗り物のように、私には見えた。
「さ、行きますか」
白い道着姿の美波さんの声。落ち着いている。
「さっ、行きましょうか。行ける処まで」
やっぱり美波さんの声は落ち着いていた。
その白い道着姿は、朝日に向かっていま正に羽ばたこうとする白鳥のように、私には見えた。
これほどに美しい生物が、この世に存在したのかと思える程に、その姿は美しかった。




