美しき生物(6)
今回もよろしくお願いします。
画面の向こう側にある風景は、勝者が敗者を見下ろしていると言った普通の決着とは違っていた。
敗者である水澤選手は、今も地に伏せたままだが、勝者であるはずの小山氏も片膝を床に付けた状態だ。立ち上がれない。両膝を床から離すという2才児でもできるそれだけの動作が、今の小山氏にはできないのだ。
私も面識のある小山塾の二方が、小山氏の両脇に立ち、肩を貸す格好で小山氏の体を持ち上げた。その周りを蝶ネクタイ白シャツレフェリーがうろちょろしている。たぶん勝者である小山氏の手を改めて挙げたいのだろうが、とても氏がそんな状態じゃない。
立っているのがやっと。それも2人に抱えられてやっとだ。
これが勝者の姿なのだろうか。顔面は血まみれ。腫れあがった右目は、完全に塞がっている。残った左目の焦点もまるで定まっていない。道着は自分の体から噴き出た血で数か所変色している。
「美しいね」
少し震えた声で溝田さんが呟く。美しい?その形容詞の意味が、私には分からなかった。
「これ、今の順一先生の姿。これが自分の限界を出し切った・・・ううん、自分の限界を超えた者の美しさ」
今の小山氏の姿が美しいかどうかと問われれば、決してそうは言えないと思う。まぶたが腫れあがった血まみれの形相は、どちらかと言えば凄惨極まるものだ。
でも何だろう。確かにいま私は感動している。その凄惨な氏の姿に。
溝田さんが続ける。
「人が自分の限界を試せることのできる機会なんて、一生のうちに何度もあるもんじゃない」
美波さんは答えない。一点を見つめ黙りこくっている。その視線の先に何があるのかは、私には分からない。想像もできない。
「やろうよ、美波。あのルナ・ワイズマンと」
遠回りの一切がないその言葉を、遂に溝田さんが発した。発してしまった。
ここに至るまでの会話に、その可能性を感じなかった訳ではない。それでもあまりにも直線的なその言葉に、私の体は強張ってしまった。そして美波さんも固まってしまっている。その口も、その表情も。とても冷たい眼。そして静かに息を吐く。
「我ながら、自分の勘に驚くわ」
ようやく口から出た美波さんのそのセリフの意味が、私には判然としない。美波さんの勘とは一体?美波さんが体の向きを変え、向き直ったのは私の方向。えっ、私?
「前にも言ったことがあるような気がするけど」
前にも言った?私は以前に何を聞いたのだろう。分からない。
「なぜか私の今後を左右しかねない分岐点には、いつもお菊ちゃんが傍にいるってことです。今回、お菊ちゃんに無理を言って来てもらったのも、無意識に何かを私が予感していたのかも知れません」
たしかに今回強引に連れてこられたのは事実ですが、私なんかが何だというのでしょう。糞です。金魚の糞です。それ以下です。たぶん。
「お菊ちゃん、どう思いますか?」
とっても聞くのが怖かった美波さんの問いを、遂に私は聞いてしまった。
この美波さんの問いに、私は答えられる立場にあるのだろうか。
この春に無事新弟子検査を合格し、お相撲さんへの道を歩み始めたケンちゃんになら、(頑張って!)と言えるだろう。現在、憚りながらマネジャーの立場にある私としては、新たな事にチャレンジしたいと思っている若手社員の応援は厭わないだろう。
しかしである。ダメだ。思考がまるで纏まらない。当然、言葉も浮かんでこない。
ここは一旦状況を整理しよう。
美波さんは強い。途方もなく。溝田さんの(10倍強い)発言は、決して溝田さんの謙遜だけではないだろう。でも相手は世界最強女子だ。さっき控室で見た様子だと、美波さんより背が20センチくらいは高いだろう。体重だって20キロ以上は重たい。
加えて、美波さんは柔心会という組織の頂点に立つ人だ。もし美波さんが負けた場合、組織としてのイメージダウンは計り知れない。でも、もし美波さんが勝ったら。世界最強と言われる選手に公の場で、これを打ち負かしたなら。きっとこれまでの美波フィーバーどころでは済まされない。でもそんな判断を委ねられるほど、私なんかは偉くない。意見できる立場にない。
「どう思います。お菊ちゃん」
美波さんの催促の一言。困る。催促されても、私は柔心会の運命を左右しかねない判断ができる人間ではないのだ。そう、私は所詮、そんな立場なのだ。どう考えても。
(私なんかには・・・)
喉の手前までその言葉が出掛けて、私はその言葉を引っ込めた。柔気道や柔心会のことは、私なんかが考えることじゃない。おこがましいにも程がある。美波さんが私に問うているのは、私自身がどう考えるかだ。美波さんの言葉を借りれば、友達として、どう思うかだ。きっと美波さんは、それを期待して私に問うているのだ。ならば、今の自分の思いを、クソが付くほど正直に言葉に変換するのが、友達としての礼儀と言うものだろう。え~~と・・・
「私は・・・美波さんのことが好きです。こんな素敵な人は他にいないって思えるほど。いまこの瞬間も、美波さんの傍にいることも、誇りに思っています」
何だか拙い告白のようになってしまった。美波さんは真っすぐに私を見ている。私の言葉に耳を傾けてくれている。でも、まだ美波さんの問いに対する回答になっていない。とてつもなく私はいま緊張している。緊張していることが分かった。
そして私は振り絞った。振り絞ったのは思いであり、そして言葉であり、勇気でもある。
「私は美波さんが全力で戦う姿が見たいです。大好きな美波さんが、世界中で一番輝く姿を、私は見たいです」
数舜をおいて、美波さんが優しくにこりと笑った。




