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美しき生物(5)

次回の章が最終になりそうです。やり切った感あります。


(ルナと戦ってみないか?)


とんでもない上原さんの言葉を聞いた美波さんは、一瞬だけ感情の高まりを垣間見せたものの、今はいつもの涼しい顔に戻っている。言葉は返さない。上原さんもさらに踏み込んだりはしない。ここメディカルルームに出現した暫しの沈黙。テレビが消されているため、その静けさは怖いほどに深い。次は誰が口を開くターンなのか。少なくとも、絶対に私じゃない。


「溝田先輩」


小さく沈黙を破ったのは上原さんだった。まあ、そうだろう。ここに私達を呼んだのは、他でもない上原さんなのだから。いや、私達じゃないか。呼ばれたのは美波さんだ。


「芝山美波は自分の10倍強い。この言葉、真実なのかしら」


上原さんの問いに対しての、溝田さんの返信は速かった。


「ええ」


これっぽちも迷いのない溝田さんの肯定。


「そんなことない」


こちらも迷いなく否定したのは美波さん。

溝田さんが体を捻り、美波さんの方に振り返る。


「じゃあ美波、日頃の私とのスパー、全力で戦ってるって言える?私は美波とやるときは、いつも全力で戦ってる。そして気付いている。美波は持てる力の半分も私にぶつけちゃいない」


「それは誤解。私はいつもキコちゃんとは真剣に戦っている」


珍しく美波さんの声のトーンが高くなった。滅多に聴かない美波さんの上ずった声だ。

これに対し、優しく左右に数回首を振ったのは溝田さん。


「真剣と全力は、ちょっと違う。美波には経験がある?全身の筋肉が千切れる程に力を振り絞って、それでも全然足らなくて。肺がペシャンコになるほど息を吐き出して、目の前が紫一色に変わって。耳の奥がキンキン鳴って、心臓が倍に膨れたような感覚になって。なんて自分は弱いんだろうって嫌になって。私は、それをオリンピックの決勝で経験した」


美波さんが黙り込む。アクリル板の向こうで、上原さんも口を開いたりせず、静かに2人の会話に聞き入っている。当然の如く、私は何も言える立場にない。

今のこの室内の空気をどう言い表せばいいのだろう。私にはそれを表現する適当な言葉が見つけられない。


「美波は見たくないのかも知れないけど、順一先生には、私もお世話になっている。高校時代から。点けるよ。テレビ」


溝田さんが立ち上がり、数歩でテレビの前に立ち、そして主電源を入れた。先に美波さんが主電源自体を切ってしまっていたため、リモコンが機能しないのだ。

画面が再び立ち上がるのに要した時間は、たったの数秒。でもその数秒がやけに長く私には感じた。



小山氏は、今もなお立っていた。目尻と鼻から血が飛び散り、それが顔に張り付き、赤黒い染みを作っていた。白いはずの道着の方は、もっと凄惨な状態で、冬の間中ずっと放置されていたプールの底の水垢のような染みが、数か所に出来上がっていた。

それでも氏の眼は死んでいない。まだ力が残っている。その氏の眼光に対して激しい憎悪をぶつけるように、水澤選手が両の拳で襲い掛かる。その姿に躊躇の様なものは、まるで感じられなかった。戦いとはそういうものなのだろう。左右の拳と両方の脚。止むことなく速く重たい攻撃が、小山氏の肉を打つ。


(ぐぼっ)


そんな擬音語が正にぴったりだった。水澤選手の膝蹴りが、小山氏の腹部に押し込まれたのだ。強く、そして深々と。小山氏の体が“く”の字に折れる。人間一人を倒すには十分過ぎる破壊力を有した技。

小山氏の体が下方向に崩れていく。水澤選手は、これを追撃しない。


(もう十分)


そんな確信の表情。勝負あり。私はそう思った。きっとそう考えたのは私だけじゃないだろう。コンマ数秒後か、あるいは1秒内外。小山氏の体が地に落ちるまでに残された時間。


(ひゅん!)


下に崩れたかと思えた小山氏の体が、前方方向に加速した。小山氏の右肩が水澤選手の胴に捻じ込まれる。肩で一番下の肋骨を叩き折る技。砕脾さいひ。勝利を確信し、私の見る限り、初めて動きを止めた水澤選手の油断を、小山氏が見逃さなかったのだ。同じく体を“く”の字に折った水澤選手の体も沈んでいく。床に向かって。


(グルンッ)


水澤選手の体が低い位置で丸く転がった。地に体が落ちた時には、その低い体勢とは対照的に、腕だけが高く空に向いていた。水澤選手の腕を、小山氏が抱えて捻じり上げていたのだ。

小山氏は天を見上げている。血まみれの鬼神。動かない。二人とも。

レフェリーが地に伏せられた水澤選手の顔辺りを覗き込む。何かを観止めたレフェリーが立ち上がり、そして大きく腕を交差させた。訪れた数舜の静寂に続いたのは、とてつもない大きさの歓声。まるで津波のようだ。ゴングの音をかき消して、リング上の二人の存在すら飲み込んでしまうほどの。


今も水澤選手の腕を抱えている小山氏の両手を、レフェリーが強引に振りほどく。相当の力を込めているようだが、それでも小山氏の手は離れない。腕を振り解くのを諦めたレフェリーが、代りに“ぽん”と小山氏の肩を叩いた。やっと小山氏は技を溶いた。


レフェリーが、まだ片膝を床に付いている小山氏の左腕を上げた。煌々と輝く天井の照明に向けて。またも大きな津波が、画面を介して私達に押し寄せてきた。




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― 新着の感想 ―
[一言] 美波さんは全力を出していない…確かにそうなのかもしれませんね。美波さん、今まで全力ではなく、必要最低限の力で戦っている印象がありましたし。でも、小山さんたちと戦うとなれば、そうは言っていられ…
2023/05/15 09:49 退会済み
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