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美しき生物(4)

ついに我らが美波さんが・・・

今回もよろしくお願いします。


「私は今日キコちゃんのセコンドとして此処ここに来てる。キコちゃんの心の準備もある。さっさと要件を済ませましょう」


実父がまさに今戦っている姿が映し出されているテレビを、あっさり切った美波さんの行動は、少なからず私を驚かせた。溝田さんも上原さんも、少し怪訝な表情を見せた。

それでも上原さんは、すぐに納得したような眼をして話し始めた。


「もうご存じだろうけど、今日私はリングに上がることができません」


その話は聞いている。あの高木から聞いた。発熱が原因らしいが、それほど体調が悪い様子には見えない。


「心中察します」


じつに悲しそうに残念そうに、そう口にしたのは溝田さん。同じアスリート同士だからこそのシンパシーなのだろう。美波さんの口から言葉はない。


「うん、残念。残念で、そして無念。でも、その反面・・・」


その反面・・・何だというのだろう。ここは次の上原さんの言葉を待つしかない。


「正直、ほっとしている自分がいる。そんな自分を責めるのも、自分に厳し過ぎるのかなって思う。だって、相手はあのルナ・ワイズマンだよ。誰だって逃げ出したくなって当然でしょう」


上原さんのその言葉を、私はどう捉えたらいいのだろう。逃げ出したくなる。怖くて仕方なかった。そんな気持ちは分かる。私も怖いのとか痛いのとかは相当に苦手なクチだから。


「人間と戦う気がしなかった。ルナとの試合が決まってから、ずっと」


上原さんの声が沈んでいる。ほっとしたってのは本心だろう。そして、多少の自己嫌悪もあるだろう。アクリル板の向こう側でうつむいていることが分かる。


「プロ転向後30戦無敗のキャリア。“インテレクチャル・ポーラーベア”。“知能のある北極グマ”。ルナはそう呼ばれてる」


補足したのは溝田さんだ。美波さんに話しかけている。


「いま自分がほっとしている事実で分かる。分かった。私はルナに勝てない」


その本心を吐き出すのには、相当の決意が必要だったのだろう。たっぷりの間があった。格闘家としての敗北宣言。それも戦わずしての。プロの格闘技選手にとっては、きっと自分を全否定するに等しい言葉だったのだろう。


「ところで、溝田先輩」


敢えて明るい声で上原さんが話題を変えようとした。私にはそう思えた。


「先輩は覚えてられないでしょうが、学生時代、先輩とは一度対戦しています。私が大学1年の時。関東大会の団体戦1回戦でね」


「あっ、ごめんなさい」


溝田さんが上原さんに詫びる。その反応は(勝ってしまってごめんなさい)ではなく、(覚えてなくてごめんなさい)だろう。当時の上原さんの実力は、数年後にオリンピアンとなる溝田さんの記憶に残るほどの技量ではなかったかのかも知れない。そして当然、溝田さんが、その試合の勝者となったのだろう。2人の会話から想像するにそうだ。


「当時の私は中途半端だったから。どちらかと言えば柔道は好きじゃなかったし、かと言って並行して習ってたボクシングだって、それほど真剣にやってた訳じゃないし」


(打撃も組技も一級品の、極めて高いレベルのオールラウンダー)


上原さんを評した溝田さんの言葉がそれだった。廊下を歩いている時の会話の一部。

そういう意味では、この上原さんと美波さんには共通点があるのかも知れない。


「でっ、結局格闘技とは縁もゆかりもない一般企業に就職したんだけど。研修期間中に滞在したアメリカで、私はMMAと出会ってしまった」


エムエムエー?またまた私には分からない横文字が飛び出した。まあ、分かろうが分かるまいが、いまここに居るのは、日本最強女子と元オリンピックメダリスト。そして美波さんだ。

私が出る幕なんて、初めからあろうはずもない。


「そこで私が見たのは、日本の格闘家が、外国のアスリートに為す術なく負け続ける姿。空手の選手も柔道の選手も、皆、例外なく」


多少、日本人として悔しい気もするが、私なんかにとっては多少の域を出ない。自分が格闘家だなんて、これっぽっちも思ってないし。でも上原さんなんかは、私とは違う思いを抱いたはずだ。それに、柔道で頂点を極めた溝田さんならどう思うのだろう。柔心会という大組織の頂点に立つ美波さんなら。分からない。この人たちが何を思うのかなんて、私には見当もつかない。


「まあ、でもそれは致し方ない。柔道の選手は相手が殴ってくることを想定して練習しないし、空手の選手も寝技に対抗する術を身に付けようなんて考えない。ボクシングの基本的な構えは、相手が蹴ってくる場面には、まるで向いていない。サッカーの選手が、もしボールが楕円形のラグビーボールだったならって考えないのと一緒」


上原さんの言葉の意味を、私は考える。分かる様な、分からない様なって感じが、正直なところ。


「昔はそんな全方面の戦いを視野に入れた武術や格闘技が日本にはあったかも知れない。古流武術とかね。でも戦国の世ならいざ知らず、今はない。多分」


アクリル板の向こうで、上原さんの視線がちらりと美波さんの方を向いた・・・ような気がした。はっきりとは分からない。なにせアクリル板の向こうなのだ。

溝田さんと美波さん。2人は黙っている。


「じゃあ、そんな全方面の戦いができる格闘家に自分がなってやろう。これでも武道発祥の国の日本人って誇りもあったしね。それが私のモチベーションだった。ずっと」


「その後のご活躍は、存じ上げてます」


小さく口にしたのは溝田さん。


「アメリカで勝ったり負けたりを繰り返して、負けた時にはその反省を次に活かして、そしてここまでたどり着いた。10年以上掛けて、やっとね」


「そして、今や日本最強と言われるまでになった。尊敬に値します」


溝田さんの言葉には、間違いなくその念が込められていた。


「ありがとう。でも、日本最強じゃ意味がないのよ。だって日本人の強さを証明したい。それが私の目標だったから」


溝田さんが言葉に詰まる。美波さんも押し黙っている。


「世界最強に挑戦するまではたどり着いた。でもたどり着いて見上げてみて、そして分かった。その頂点は、私にはあまりにも高い。高すぎる」


「たしかに、ルナは強すぎます」


溝田さんが相槌を打つ。すごく優しい口調で。


(自分を責めないで下さい)


そんな気持ちが含まれているような感じがする。


はばかりながら言わないといけない言葉なのかも知れないけど、私が勝てなければ、誰もルナに勝てる日本人はいない。そう思っていた」


日本最強と言われているアスリートの自負が十分に感じられるセリフだ。でも(そう思っていた)って過去形なのには意味があるのだろうか。


「柔心会の芝山美波は自分の10倍強い。ふと思い出したのが、この溝田先輩の言葉。この先輩の言葉が事実なら、芝山先生なら、あるいは・・・日本武道の強さを証明するのは、何も私である必要はない」


その上原さんの言葉を皮切りに、一気に室内の緊張が高まった。えっ、まさか、上原さんが美波さんを呼び出した理由って・・・


「私に代わって、日本人の強さを証明してみるつもりはないかしら?あのルナを相手に。どうですか?芝山先生」


ぶわっと美波さんの体が、一回り大きく膨らんだ気がした。



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― 新着の感想 ―
[一言] 美波さんへのおもわぬ提案…確かに美波さんはすごく強いですが、彼女、受けるのでしょうか…?ただ、そのことを思うと、まだ彼女を分かりきれていない自分がいることに気付かされます…美波さんが出たなら…
2023/04/27 18:39 退会済み
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