美しき生物(3)
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「要件の前に、まずは試合を観ましょうか。芝山先生のお父さんなんですってね」
アクリル板の向こう側の上原さんの言葉。
アクリル板のあっちとこっち、両方の位置から観る事ができる位置に、壁掛け型のモニタが掛かっていた。大きなモニタだ。一般家庭で使うには、やや大き過ぎるだろう。
今日の一試合目。小山氏の試合が、まさに始まろうとしていた。カメラが追っているのは、上半身が裸、下は黒いキックパンツ姿の若者。しなやかな体つきだ。名はたしか水澤流星。才能溢れる現役高校生ファイターだと聞いている。対して小山氏は、いつも着用している年季の入った白い道着姿。白髪交じりの髪が年齢を隠さない。
最近は道場でご一緒することの多い氏が、全国放送のテレビに映っている。とても不思議な感じだ。でも小山氏が画面に映る頻度はそれほど高くない。圧倒的に水澤選手の方がよく写っている。そこは世間の注目度の違いなのだろう。
一目で判る。この若いファイターは強い。“スパーク”とかいうニックネームだとか、デビュー以来無敗の戦績だとか、そんな話だけじゃない。モニタ越しに見ても、この選手がとても強いことが、空気で分かるのだ。そんな事が分かるのが、自分でも不思議だ。決してこの若いキックボクサーは、特別に身長が高い訳でもなければ、筋骨隆々って訳でもない。でも分かる。強者の纏う雰囲気なのだ。
「適当に椅子に座って下さい」
上原さんが私達を促す。折り畳み式の椅子が何個か部屋の隅に置かれていた。
最初にこの椅子を手にしたのは溝田さん。そして美波さん。最後に私。
なんて呼ぶんだろ?司会進行役?リングアナウンサー?いずれにせよ、実に淡々と、蝶ネクタイ黒スーツの兄さんが、両選手の名前をコールした。プロレスみたく、やたらともったいぶったりしない。国歌斉唱なんかもない。そしてあっさりと画面の向こう側でゴングが鳴った。別の世界から聞こえてきたような鐘の音だったが、それは間違いなく、ここから百メートルと離れていない場所で鳴らされたリアルタイムの音なのだ。
速い。とにかく速い。水澤選手のパンチとキックがだ。ゴングが鳴って10秒と待つことなく、小山氏がロープを背にした。昨年末に私が体験した西宮サークルのナガサキさんとの闘いを思い出す。レベルはまるで違うのだろうが、柔気道とキックボクシングの戦いと言う観点では共通していると言えなくない。
(一歩でも後ろに下がった時点でお菊ちゃんの負け)
あの時の美波さんのアドバイスがそれだった。
単純に素人の私と比較するべきものでもないだろうが、それでも小山氏の圧倒的劣勢は明らかだ。体が発する圧力が桁違い過ぎる。
「凄いね」
低音の静かな声の主は上原さんだった。たしかに水澤選手の攻撃は凄い。凄すぎる。そもそも60才を過ぎた人間がリングで向かい合うような相手ではないのだろう。私は怖すぎて美波さんの今の表情を伺うことができない。それよりはまだ画面を観ている方が、いくらかましだ。
「これだけ攻め込まれて、まだ一発も有効打をもらっていない。60才を過ぎた人間の反応速度じゃない」
これも上原さんの言葉だ。美波さんも溝田さんも、黙して画面から目を離さない。
えっ、上原さんが凄いって言ったのは、もしかして小山氏の方?
水澤選手のパンチが、小山氏の頭部の少し上を通り過ぎた。“トン”と小山氏の肩が、水澤選手の懐に収まった。水澤選手の攻撃が、ゴングが鳴ってからこのとき初めて止まった。
「ヨシッ、潜り込んだ。そのまま倒せ!!」
声を張ったのは溝田さんだ。溝田さんの声が聞こえた訳ではないだろうが、小山氏が水澤選手の長い脚を腕で絡めとろうとする。水澤選手が耐えている。体勢が崩れない。細身の体だけど、柔らかくて体幹が強そうだ。足を前に運ぶ小山氏。背中を弓のように反らして、倒れまいと耐える水澤選手。
音を立てそうな力の均等。勝ったのは水澤選手の若さだった。強引に小山氏の体を引き剥がした水澤選手が、低いところに位置していた小山氏の頭部に、膝蹴りを突き上げた。小山氏の頭が上方向に弾かれた。背中の産毛が逆立つような迫力。上に弾けて露わになった小山氏の顔面を、水澤選手のパンチが追撃する。これは小山氏が躱した。2人の間に距離が生じる。
「いまの膝は、ちょっと効いちゃったかもね」
上原さんのコメントに何かを心配するような声色が含まれる。
「相手のド正面に立つからだ。バカ」
吐き捨てるような美波さんの声。そして何故か美波さんは急に椅子から立ち上がった。
ゆっくり壁の方に向かい、そして躊躇うことなくテレビの主電源を落とした。




