美しき生物(2)
今回も応援よろしくお願いします。
溝田さんの準備運動は、いつも柔心会本部道場で繰り返されていた練習と、ほとんど同じ内容だった。
美波さんが打撃技を出す。これを躱し、時にガードして、そして溝田さんが美波さんの懐に飛び込む。美波さんが耐える。さらに溝田さんが踏み込んで、美波さんを床に引き倒す。それの繰り返し。
ある日の練習のこと、美波さんが溝田さんに提案したことがあった。
「キコちゃんのタックルって、すごく鋭くて速いけど、もう少しゆっくり入ってみたらどうかな?リズムをずらすって感じかな。こう」
そう言って美波さんが溝田さんに仕掛けた技は、柔気道では、“鶏”を“捕える”と書いて、『鶏捕』という技。地を逃げる鶏を怯えさせることなく腕に抱え込むイメージが、その技の名の由来らしい。
美波さんが地を滑るように沈み込んで、溝田さんの懐に潜り込むと、あっさりと溝田さんの背が床に落ちた。
(ドン!)って感じの溝田さんのタックル。(すぅ~)って感じの美波さんの『鶏捕』。この日以来、溝田さんがスパーリングパートナーを倒す確率が、少し高くなったように感じた。
今日も溝田さんは、この(ドン!)と(すぅ~)の二通りの技を試しているようだ。
それにしても美波さんの打撃技は美しい。特に白い道着姿で高い蹴りを放つ姿は、両の翅を広げる白鳥のように見える。アップに励んでいるプロの格闘技選手が、感嘆の声を漏らすほどに、それは優雅で美しかった。
溝田さんの額から、汗が雫となって床に落ち始めた頃だった。入口から入ってきたのはダークグレーのスーツ姿の男性。中肉中背。髪が短く、そして若い。少なくとも私よりはいくらか若いだろう。真っすぐに私達に向かってくる。
「芝山先生でいらっしゃいますか?」
男のその言葉を聞くまで、出場選手である溝田さんに用事があるものだと思っていた。
そうではないらしい。その男の声は、当然美波さんに届いていただろうが、美波さんは動きを止めなければ、返事もしない。
「私、R-ORの岸本と申します」
ここでやっと美波さんと溝田さんは、その動きを止めた。溝田さんの方が、まずはタックルの動作をストップしたのだ。
「上原雅代選手が、芝山先生に会いたがっています。もしよろしければ、メディカルルームまでご同行頂けないでしょうか」
男はとても緊張しているようだった。
私はこのとき、得体の知れない恐怖を感じ始めていた。
メディカルルームに続く廊下を歩いている間、上原雅代について溝田さんは語った。美波さんに向けてである。
年齢は2人より3つ年下。つまり今年34才。この日本では総合格闘技のパイオニアで、本場アメリカに渡り、ローカルタイトルのいくつかを、これまで獲得しているらしい。
(この日本で格闘技の世界に身を置いている人間が、“上原雅代”を知らないなんて信じられない)
というのが溝田さんのセリフではある。溝田さん的にはびっくりなのだそうだが、そんな事にまるで興味も頓着もないところが、いかにも美波さんらしくあると、私は同時に思う。
メディカルルームに到着した時、ついさっき分厚いタオルで汗を拭ったはずの溝田さんのおでこと二の腕あたりに、もう汗の粒が浮いていた。しっかり肺を広げることはできたようだ。あとは来るべき決戦のリングに立つまでに、しっかりと心を作り上げる作業を残すのみって感じなのだろう。それはそんな遠い先の事じゃない。たぶんその時まで、あと1時間を切っている。溝田さんがドアを押し開く。
“この先立ち入り禁止”との張り紙が、まず目に飛び込んだ。分厚いアクリル板の向こう側に人気が確認できる。そして、その人物が近づいてくる気配。紅いジャージ姿。大きな体。そしてその人物と私達は、透明のアクリル板を介して向き合う格好となった。
「ご無沙汰してます。溝田先輩」
顔の下半分を白いマスクで覆った長身の女性が、そう口にした。
「今回は残念でしたね。上原さん」
アクリル板の向こうにいる人物が上原雅代であることは、これで確定した。
上原雅代は溝田さんを“先輩”と呼んだ。溝田さんの声には、目上の者に対する敬意が感じられた。上原さんの言う“先輩”とは、例えば学校やジムでの事を言ってる訳ではないだろう。溝田さんの方が年上なので、そう表現した。上原さんに“先輩”と呼ばれながらも、この世界では格上の上原さんに向けての言葉に、溝田さんが敬意を込めた。短い2人のやり取りを、私はこんな風に理解した。
「呼び立てておいて、こんなアクリル板越しにごめんなさいね」
上原さんの声は低い。男性の声と勘違いするほどでもないが、女性としてはかなり低音に分類される声だ。その体の大きさを考えると、別段不思議なことじゃない。身体の大きさはアクリル板越しにも分かるが、さすがに細かな表情なんかはよく分からない。
「そちらが柔心会の芝山先生ですね。お初にお目にかかります。上原です」
上原さんが板の向こう側で、少し顔の向きを変えたのが確認できた。
「芝山です」
短く美波さんが答えた。
現在、日本最強と呼ばれているらしい上原雅代と美波さんの、ファーストコンタクトだった。




