美しき生物(1)
新章突入です。今回もよろしくお願いします。
選手達がウォームアップに使っている小体育館に入った時、熱を持つ固形化した空気の塊が、私の顔面にぶち当たった・・・ような気がした。
人間の体温、濃い汗の匂い、荒い呼気、ミットの破裂音。そいつらがごちゃ混ぜの一緒くたになって、空気に溶けて四角く固まって、そして私の顔にガツンと向かってきたのだ。私の体は一気に硬直状態。入口付近で立ち尽くす。
「お疲れ様です」
熱気と殺気が満ちている室内の雰囲気にはおよそ似つかわしくない、実に穏やかな柔らかい声が聞こえた。一番入口付近で柔軟体操をしていた道着姿の小山氏が、床にお尻を付けたままの状態で、声を掛けてくれたのだ。
おそらく小山塾の関係の人なのだろう。男性2人が氏の周辺に立っている。
小山氏の額には玉のような汗が浮いていて、白髪交じりの髪も、側面がしっとりと濡れていた。早めに会場入りして、たっぷりと体を動かしていたのだろう。美波さんとの静かなアイコンタクト。言葉はない。肝が据わり、そして吹っ切れたような目だ。氏の静かであるが強い決意がにじみ出ている。高木が(いい顔をしていた)と表現したその顔だ。
「いきなりの一試合目だったっけ」
「ああ」
実の親子の交わす会話は短い。
「お父さんのセコンドに付かなくていいの?」
小山氏と美波さんの顔を交互に見た溝田さんが言う。
「必要ない」
小山氏と美波さんの声が見事に重なった。小山氏が立ち上がる。
その身長は私より少し高い程度。肉の厚みも、それほどじゃない。髪には白いものがたっぷり混じった60歳を超えている普通の紳士・・・ではない。静かな佇まいに潜む熱い闘志と決意。
いま眼前にいる氏から、そんなものを私はたしかに感じ取っている。
「溝田さん、今日はお互いに頑張りましょう」
「はい、美波をお借りして申し訳ないです」
2人が握手を交わす。2人とも優しい目をしている。優しい目をしているが、闘志に満ちている。まるで矛盾することなく、相反するはずのモノが、この2人の中に自然に共存している。不思議だ。ずっと不思議に思っていた。武道や格闘技をやってる人って、怖い人ばかりじゃない。むしろそんな強さと優しさを同時に併せ持つ人が、とても多いのだ。溝田さんもそう。美波さんもそう。人一倍強いくせに、それでもとても優しい。私がいまも柔心会に通い続けてる理由って、実はそれなのだ。続けていれば、私もいつかそんな人になれるかなって思ってるのだ。
「先生、そろそろ」
小山塾の関係者と思しき男性の一声。
(ああ)と答えた小山氏の目に、更なる闘志が立ち上がる。
「それでは溝田さん、お先に行って参ります」
(参ります)なんていかにも古風な言い回し。それが小山氏に実に似合っていると私は思った。
「ご武運を」
短く溝田さんが返す。
私達は小さくなっていく小山氏の背中を、しばし見ていた。
氏が入口のドアに手を掛けようとしたその時、外側から不意にドアが開かれた。
巨大な黒いシルエットが入口の向こう側から現れる。
(失礼)
正にそんな感じで小山氏が体を翻し、道を空けた。間違いなく道を空けた。にも拘わらず、“どんっ”と、黒い服装の大柄の白人男が、小山氏の胸を両手で突いたのだ。
(邪魔だ!)
正にそんなセリフを行動で示した。信じられない不遜な態度。
小山氏の一般人と変わらない小さな体が、後ろに弾かれる。それだけでは飽き足らず、この巨漢が、さらに小山氏の道着の胸倉を掴んだ。次の瞬間、巨漢が情けない悲鳴を上げて、両方の膝を床に落とした。
(小手取り落とし)
柔気道の代表的な護身技だ。襟を掴む相手の力が強ければ強いほど、この技は効果を発揮する。
すぐに小山氏は技を解いた。本気で仕掛けた技じゃない。本気だったなら、巨漢白人の手首の骨が外れるか、靭帯がちぎれるかしているはずだ。
その時、もう一人の白人が、右の拳を振り上げた。大きな奇声と共に。思わず私は悲鳴を上げそうになった。
男の腕が空中で止まっていた。ルナ・ワイズマンの左手が、男の腕を空で捕えていたのだ。
まるで赤鬼のようなルナの表情に、男が怯む。あからさまな怯えが眼に浮かんでいる。そして一度は振り上げた拳を、力なく下に垂れた。
「I apologize for our disrespect.」
ルナの小山氏に向けられた英語。よくは聞き取れなかったが、おそらくは謝罪の言葉であるはずだ。拳を振り上げた白人男は、ルナに表情だけでその行為を咎められ、すでに大きな体に似合わないしょんぼりとした顔をしていた。少しヒヤリとしたが、大きなトラブルに発展するには至らなさそうだ。よかった。
そう思った瞬間、小山氏の“小手取り落とし”で床に膝を付いていた一方の白人が立ち上がっていた。いきなりこの男も右の腕を振り回した。小山氏に向けて。
(ズダン!!)
けたたましい音を立てて、男の大きな体が宙で円を描いて背中から床に落ちていた。
気付かぬうちにこの白人と小山氏の間に入っていた美波さんが、この白人を投げたのだ。
白人が背中から床に落ちたという結果をして、私はそれを理解できたのであって、美波さんの行動を目に捕えていた訳ではない。ついさっきまで、美波さんは私の横に立っていたのだ。
背中を床で強打し、低く呻いている白人男を、美波さんは冷たい眼で見降ろしていた。
「Amazing・・・」
ルナが碧い綺麗な眼を、大きく見開いていた。




