いざ埼玉(3)
今回もよろしくお願いします。
高木の立っていた位置から、距離にして5メートルほど私達が離れた頃だろうか。
「溝田選手」
高木から声が掛かった。特に何かの含みを感じさせない抑揚のない声だった。大き過ぎなかったが、私達には十分届く声量。溝田さんが立ち止まり、そして振り返る。私達も一度足を止める。
「もう検温は済ませましたか?今日リングに上がる選手全員に、メディカルルームで検温して貰っています。個人的には、コロナなど今ではそれほど神経質になる必要のないウィルスではないかと思っていますが。まあ、ルールはルールだ」
「分かりました」
溝田さんの返答は極めて短かった。そして再び歩き出したその時・・・
「上原雅代に発熱が認められました。彼女は今日リングに上がることができません」
一度は歩き始めていた溝田さんが、その足を再び止める。驚きの表情を一瞬だけ浮かべた。上原雅代、私はまるで知らない名前だ。
「これは我々にとっても痛手だし、ファンも残念がることでしょう。世界最強の女に日本最強の女が挑む。本興行の目玉の一つでしたからねぇ。まあ、一番残念がっているのは、他でもない上原本人でしょうが」
なるほど、これが高木の言う“大きな問題”だったのかと得心する。あっ!
(私達は関与しない。だから聞かない)
そのつもりでウォーミングアップに向かおうとした私達は、意図せずその内容を聞いてしまったことになる。それほど高木の前振りとタイミングが絶妙だったということだろう。
このタイミングの妙が計算されたものだとしたら、やっぱりこの男は油断できない。頭の回転が実に速い。そんな高木の計算を、美波さんが一刀に叩き切る。
「おたくも上原さんとやらも気の毒だけど、私達が力になれることは何もないわ。キコちゃん、行きましょう」
溝田さんを促す美波さんが、あっさりと高木を突き放し、そして背を向ける。歩き始める。私も続こうとする。
「日本の格闘家が自分と戦うことから逃げた。やっぱり日本人は皆臆病だ」
私達の背に浴びせられた高木の二の太刀は、今度は必要以上に大きい声だった。この太刀は、美波さんの背に届いたようだ。美波さんが足を止める。
「何だって?」
振り返らず美波さんが反応する。声に怖いものが含まれていた。
私も背がビクっと痙攣した。
「ルナはそんな事をいう人じゃない」
美波さんの肩をぽんと叩き、溝田さんが呟く。少し波立ったかも知れない美波さんの感情を宥めるような温かさが感じられる声と仕草だった。
「もちろんです。ルナ・ワイズマンは超一流のアスリートだ。人間的にも尊敬に値する人物です。そうじゃないのは彼女の周辺。はっきり言えば、彼女の所属している団体の人間だ」
何やらスマホを操作しながら高木が言葉を繋いでいる。
「これが、ルナが来日した時のコメントの掲載された記事です」
(小さな島国の小さな日本人を捻り潰すために来た)
液晶には、左右に全身黒づくめの男性を従えたルナが、右手の拳を持ち上げて笑っていた。
口角を吊り上げた、何かを挑発するような不自然な笑み。2人の男性に見覚えがある。昨日、大宮の鰻屋に入ってきた人物のうちの2人だった。
私と溝田さんは高木の持つスマホの液晶を思わず覗き込んでしまったが、美波さんはそうしない。我、関与せず。そんなところなのだろう。
「たぶん本心ではないでしょう。真剣勝負とは言え、こんなのもエンターティメントビジネスの一部だ。多少下品なパフォーマンスも時に必要となってくる。それは私も否定しない。多少ムカつきますがね。小さな島国の人間としては」
溝田さんが液晶画面を見つめていたのは、ほんの数舜だった。
「じゃ、美波、アップ手伝ってくれる?」
「もちろん」
オリンピックメダリストと柔心会主席師範が、高木を残して歩き出していた。少し遅れて私も続く。
「今日・・・」
廊下いっぱいに響く高木の大声だった。行き来する人の数名が何事かと振り返る。それでも、今度は2人とも足を止めない。
「今日、世界最強と言われるルナ・ワイズマンの上がるリングに席が空いている。その事の意味を少し考えてみて下さい。誰にでも座る資格がある訳じゃない席だ」
そんな高木の声など、まるで耳に入っていないかのように、2人の歩調は変わらなかった。
何だかオロオロとしてしまう私。え~~と・・・
「まずは検温に行った方がいいのではないでしょうか」
2人が振り向く。
「さすがお菊ちゃん」
美波さんが笑った。笑ったが、その目は少しも笑っていなかった。
そのことが何だか私には怖かった。




