いざ埼玉(2)
エンディングに向けて執筆加速中。今後ともよろしくお願いします。
“肉”に“圧”を続けて、肉圧と読む。そんな言葉があるかどうかは知らん。
“肉”に“匂”を続けて、肉匂と読む。そんな言葉はない。たぶん。
それでも私がいま感じているのは、まさに肉圧と肉匂なのだ。
同じ時代に生息する同じホモ・サピエンスとは思えない異形の筋肉を有した生き物が、選手控室の中に群衆している。溝田さんもそんな生き物の一人。
絶対に電車に乗った方が早いと理解しながら、ホテルからさいたまうんちゃらアリーナまでタクシーを使った。
助手席に私。後部座席に溝田さんと美波さん。運賃は美波さんが支払った。
さすがに超有名人の溝田さんが、決戦当日に電車で移動ってのは、相当に目立ってしまい、コンディションに悪影響を及ぼしかねないとの判断なのだろう。
美波さんの御父上である小山順一氏は、別のホテルからこれもタクシーで会場に向かっているはずだ。美波さんが今朝電話していたので知っているのだ。
ホテルが私達と別々だったことに、深い意味があるのかないのか、私には分からない。
そして1時間前、私達は多少の渋滞に巻き込まれたものの、無事に会場入りし、まずは女子更衣室で着替えたのである。
ここで私は『TEAM-MINAMI』ティーシャツ姿になった。以前と比べて相当に無駄な脂が落ちた体であるが、それでもプロ格闘技選手である溝田さんのそれとは量も質も違い過ぎて、それはそれは場違いだと感じた。
私は素肌の上に直接ティーシャツを着たのだが、溝田さんは試合用の黒いへそ出しタンクトップコスチュームの上から、このティーシャツを着た。このシャツ姿で入場し、リングの上で脱ぐ演出を考えているのだという。恥ずかしくないのかしら?このシャツの色彩感覚。
そして美波さん。美波さんはティーシャツではなく、普段稽古で着用している白い道着姿になった。これから軽く溝田さんと組み合って、体を解すのに付き合うらしい。
溝田さんがリングに上がるまで、あと2時間といったところだろうか。
「試合までに一度、肺を広げておきましょう」
柔心会本部道場でみる美波さんの道着姿は、それはもう圧倒的な存在感を放つが、さすがにプロの格闘技選手と比べると、その線の細い体は少し見劣りする感じだ。それでも、この2人に委縮するような様子はまるでない。堂々とした態度で、美波さんと溝田さんは控室を出た。私も二人に続く。とっ・・・
控室のドアの前に、あの男が立っていた。濃紺のスーツ姿。高木だ。私達は立ち止まる。
まず口を開いたのは、意外にも美波さんだった。
「一応、礼を言っとくわ。キコちゃんのリベンジマッチを組んでくれたこと。父に最後の戦い場所を与えてくれたこと」
その美波さんの声に、愛想のようなものは含まれていなかったが、単語の意味だけを取ると、やはりそれは礼の言葉だった。
「それには及びません。単にビジネスとしてメリットがあるという会社の判断だ」
2人のやり取りはそれだけだった。そして訪れた短い沈黙であったが、以前のような切って放る感じの冷やかさは、美波さんの態度からは感じられなかった。かといって決して心は許していない。そんな距離感の取り方だと考えるのが妥当だろう。
高木が溝田さんの方を向き直る。
「仕上がりはいいようですね。身体に張りが感じられる」
溝田さんは声を発しなかった。目とあごを少し引いた動きだけで、高木の言った内容を肯定したようだった。この溝田さんの態度から、少なくともこの2人が決して親しい間柄でないことは理解できる。飽くまで興行側の人間と一選手としての繋がりなのだろう。
「先般、小山氏のアップの様子も見てきた。とてもいい顔をされていた。質の高い練習を積んでこられたんだろうと想像できる」
ちらりと高木が美波さんに視線を移す。美波さんは僅かも反応しない。少し高木の目が細くなった。
「なるほど。溝田、小山両選手とも準備万端と言ったところなのでしょう。しかし、こちらサイドには若干問題が起きた。いや、相当に大きな問題だ」
そう言葉を発した高木が、ここで間を作る。2人、特に道着姿の美波さんの様子を伺っているようだ。
美波さんも溝田さんも、高木の言う問題の内容を問うたりしない。その質問をすること即ち、その問題に首を突っ込むことになるのだと言う判断なのかも知れない。
それでも“相当に大きな問題”という高木の表現が、私は気になっている。ちょっと私は訊きたい気がする。
「キコちゃん、アップに行きましょう」
その溝田さんを促す美波さんのセリフは、高木の抱えたらしい問題について、こちらは関与しないという明確な意思表示だった。




