乙女のピンチ(お見合い編11)
もう暴走が止まりません。
湾岸線に入るや一気に店長さんはアクセルを踏み込んだ。
黒い革製のシートが私の背中を強く前方に押し出す。
恐る恐るスピードメータを覗き込むと、時速120キロメートルを超えて尚も車は加速していた。それでも車体がふらついたり、接地感が失われたりという事はない。さすがは外車だ。ドイツ車だ。
「岸和田インターってまだまだ先よね。それから黒い車に注意と・・・」
私に向かって話し掛けているという感じではない。店長さんの独り言のようだ。彼女が着ているのは紺色のワンピース。ただでも細身の体型がさらに引き締まって見える。同性として実に羨ましい。スカート丈は膝上。床方向に伸びた脚が真っすぐでとても綺麗だ。男性が助手席に乗れば、きっとドキドキすることだろう。足元では新品のヒールが鈍く新皮の光沢を発している。
私の方はというと、かなり恥ずかしいくらいに鮮やかなオレンジ色のワンピース姿。上質な生地を使っているようで着心地はすこぶる良いが、それでも私はそわそわと落ち着かない。自分がこんな艶やかな服装をしていること自体が、自分でも全くしっくりとこないのだ。
こういうことだ。時間にすれば6時間ばかり遡る。
「さて、どっちのお洋服にしますか~」
(もうどっちでも)ってのが本音。色合い的にはシックな紺色の方がいいと思う。でもシルエットに関しては、それはもう絶対にオレンジ色の方だ。一長一短というか、まあ二者択一の選択とは総じてこんなものだ。
(う~~ん)と心で唸る。店長さんも(う~~ん)って表情。暫し沈黙の時間。
どちらが先に声を発するか、何だか我慢比べの様相。
「菊元さんなら、絶対オレンジ色の方でしょ」
先の見えなかった閉塞を打破したのは、意外にもワタルさんの一声。さらに・・・
「若い人の特権ですよ。こんな鮮やかな色の洋服が着れるのは」
ワタルさんのさらなる一押し。
「いえいえ、若くないです。来年30才になりますし・・・」
照れながら返答する私。きっと少し顔が赤らんでいる。
「あっ、それ言っちゃうと、師範の機嫌が悪くなります」
げっ、しまった。慌てて店長のお顔を拝見すると・・・大丈夫だ。真剣にお洋服を品定めしている。しかし何故私なんかのためにそこまで真剣になって頂けるのでしょうか。
「うん、私も菊元さんにはオレンジが似合うと思う。てか、私がこの紺色のがいい。この腰の部分がぴっちりとタイトだし、丈も短めだし。これを着て男どもを誘惑するとしよう」
ああ、何だ、自分の着たい方を選んでいたのね。全く異論はありません。誰をいつ、どこで誘惑しようとしているのかは存じませんが。
「じゃ、早速試着してみます?」
今にもここで脱ぎだしそうな店長の勢い。そりゃダメでしょ、ワタルさんいるし。
「二人でめかし込んでどこに行く予定なんですか?さっきカキュウテキがどうのこうのって意味分かんなかったんですけど。俺、学ないし。とても急いでるのだけは伝わりました。てか、それしか伝わりませんでした」
(菊元さんが今日お見合いで・・・)なんて店長さんが言い出さないか、少し冷や冷やした。
でもそこまで店長さんは無神経ではないようだ。
「そんなの、女同士の秘密ですよね~」
そんな店長さんの機転に救われる。そんなところはちゃんと気遣いができる人のようだ。
「ああ、菊元さん、今日の場所ってどこだったかしら?」
「あっ、和歌山です」
「和歌山ですか。車ですか、電車ですか?」
そう私に問うたのはワタルさん。おぉ、ちゃんとワタルさんと会話を交わしている。ちょっと素敵な男性と出会うと、いつも思う事なのだが、うちの会社ってホントぱっとした男性社員いないよな。お互い様って言われそうだけど。まあ仮にそうでなくても社内恋愛って昔からちょっとな~って私は思っている。まあ、いい。今はワタルさんとの会話を楽しもう
「はいっ、電車です」
「JRですか、それとも南海?」
えっ、どっちだったっけ?和歌山駅って複数存在するの?駅前のホテルってだけで、それ以上のことは覚えていない。そもそも気が乗っていない。それでも南海電車なんて、生まれてこれまでとんと縁がないのだから、まあJRだろう。ああ、お父さんが南海ホークス時代の門田選手のファンだったかな。“不惑の40歳”だったっけ。数十年前は。いずれにせよ大昔の話だ。
「JRだと思います。多分」
「うわ~、不便ですね。いったん新大阪に出ないといけないですよ。そこから特急・・・潮風、んっ、浜風・・・何だったかな」
え、そうなんですか。全く分かりません、私には。でもえらくワタルさん、詳しいな。
「ワタルさんは和歌山のご出身なんですか?」
うん、ちゃんと会話になっている。いっそ今からここでお見合いしませんか?
「いや、材料の仕入れでよく和歌山行くんですよ。怪しい洋服屋の生地の仕入れにね。あまりにも電車だと行くのが不便な所なんで、行くときには100パー車ですね。湾岸使えば1時間強で着きますから」
100パーなんて言い方が若者風。もしかしたら私より年下かな。7年前にはやんちゃしてた人でしたよね。やんちゃができる年齢の上限って何才くらいかしら。18才、少し無理して20才。7才を足して・・・そんな若い方には私なんて大年増でしょうね。ああ、ワタル様が遠のいていく。
「湾岸って7号湾岸線のこと?」
紺色のワンピを裏返したり、スカートの丈を確認したりしてた店長さんが、何故だかそこだけ喰い付いた。
「ええ、その7号湾岸線ですよ」
キランって感じで店長さんの目が光る。それは突然に。
「今でもポルシェとかスカイラインとか、200キロで走ってんのかな・・・湾岸線」
「いつの時代の話ですか、師範。もうそんなことする年じゃないですよ、俺。でもまあ走り屋の聖地ですからね。やってる奴は今もやってるんじゃないですか。若者の車離れが進んでるって話、最近よく聞くけど。それでもいるのはいるでしょ。オービスなんかも昔から増えてないですしね。岸和田インター手前に一か所だけ、確かあったんじゃないかな」
んっ、なにゆえ店長さんの眼はそれほどまでに輝いているのでしょう。んっ、またスマホを取り出した。今度は何をお調べに?と、スピーカからコールの音。さて、どちらにお電話を?まさか車を火急的速やかに準備しなさいって・・・訳ないよね。おっ、電話がつながったようだ。
「ああ、私。美波。突然だけど・・・湾岸線って分かる?和歌山に行く方向の・・・そうそう、その湾岸線だと思う。でっ、オービスってどこにあるのかな・・・いや、アンタが警察官だから聞いてんでしょう・・・一か所・・・岸和田・・・ふんふん・・・そう、ありがと、十分。じゃあね・・・えっ、クラウン・・・覆面・・・へぇ~・・・うん、気を付けるとしよう。ありがとね・・・じゃあね~」
(プチッ)
「はい、ワタルの言う通り、オービスは岸和田インター手前に一か所だけ。でもこの時期は覆面に注意だってさ。黒いクラウン。クラウンってよく分からんけど。ワタル、どんな車か知ってる?」
「クラウンはトヨタの車で、大きめのセダンですよ。てか、今の電話の相手、もしかしてイサオさんですか?現役の警察官にオービスの場所問い合わせるかなぁ、普通・・・」
「これほど正確な情報もないでしょう。でっ、ここから車で和歌山駅までどれくらいかかるの?」
「さっきも言いましたけど1時間強。少し余裕見て1時間半かな。ミカン積んだトラックでも横転しない限り渋滞もないでしょうから」
「ふ~~ん、でっ、菊元さん、お見合いは何時からでしたっけ?」
げっ、言っちゃうかな、それ。女同士の秘密だったのでは?先ほどは機転を利かせてくれた訳ではなかったのね。ちらりとワタルさんの方に視線を流すと・・・(はは~ん)って感じの納得顔。完全に終わった。私の儚く淡い夢。
「お見合いは夕方の7時からです」
“お見合い”の部分に殊更力を込めた。もうどうにでもなれって感じだ。
「えぇ~、菊元さん、お見合いですか?もし大したことない男だったらズバっと振ってやって下さいね。若くて綺麗なんですから、まだまだ妥協するタイミングでもないでしょう。今からお見合いに臨む女性をお誘いするのも何なんですが、今度一緒に食事しませんか?菊元さんにピッタリのお洒落な店で・・・もち、師範抜き・・・」
あぁ~、ますますお見合い気乗りしなくなってきた。本当に行かないといけないのかな、今晩のお見合い。母娘の関係がさらに悪化するであろう事態以外、これといったデメリットが私にあるとは思えないです。本気でそんなことを考え始めた時、またまたワタルさんが宙に舞った。
(ドスンッ!)
今度のは完全、下の住人驚いたな。
「乙女の恋路を邪魔するな!」
本日2回目に聞く店長さんのドス声。だから恋路でもなければ乙女でもないですし。
「菊元さん、ご自宅の最寄り駅、確か尼ケ崎でしたよね。それでは夕方5時にお迎えに上がります。乗りかかった舟ですし、どうせ日曜日にお客さんなんて来ないから。昼から店、閉めちゃいましょう。今日はドライブを楽しみましょう。私のGTIで・・・」
長身の男性を2度までも投げ飛ばした女性の顔とは思えない涼やかにして可愛らしい笑顔で、店長さんが言った。
「よろしくお願いします」
もう完全どうにでもなれだ。
そして6時間後。尼ケ崎駅前のロータリーに違法駐車している真紅の車の窓から、大きく手を振る店長さん。左側のドアが開き、左側?外車??立ち上がったその姿は、膝上丈でタイトなシルエットの紺色のワンピース。同性でも思わずため息が出る。綺麗だ。本当に。駅前を歩く男たちの視線が集中するのがよく分る。
「うわ~、菊元さん、可愛い。よくお似合いですよ、そのワンピ。もう今晩のことに関しては、いま勝利宣言を出してもいいくらいですね」
「あ、ありがとうございます」
勝ちたくもない気分なんだけど、一応そう返事を返す。ちょっと心が落ち着かない。やっぱり派手な服装って慣れてない。
「もちろん、おパンツはスケスケの赤ですよね」
それ、ちょっと大きな声で言うの止めて貰えませんでしょうか。はい、赤です。スケスケの。セットで付いてきたこいつもスケスケ赤のおブラが、背中でアウターに浮いていないか、家を出る前に何度も確認した。こちらは店長さんご指摘の通り、全く問題なかった。
「じゃ、行きますよ~菊元さん、助手席乗っちゃって下さい。あ、右側ね。左ハンドルなんです、こいつ。外車だから」
「綺麗な色の車ですね。あまり見かけない赤というか」
「はい、今日の菊元さんのおパンツの色です」
だから、それ言うなって。ありがたく履かせて頂いてますけど。
「何て車なんですか?この外国車」
おパンツの話からの逸脱を目論見、話題を変えようと、そう問うた。
「ゴルフって車です。ゴルフGTI」
「ああ、聞いたことある名前です。ゴルフ」
「ゴルフGTIです。GTIってとこに意味があります。ここは譲れませんね」
はあ、どんな意味があるのかは定かでありませんが、店長さんなりのこだわりがあるのでしょう。ここはスルーします。
「さあ、行きましょう。湾岸線ですよ、湾岸線」
薄々私にも理解できてきた。店長さんは、このGTIとやらの車で湾岸線をぶっ飛ばしたかっただけなのだ。それだけの為に店を閉め、何故か自分までめかし込んで、私を和歌山まで運んでくれる所存なのだ。
でっ、店長さん自慢のGTIに乗り込み、尼ケ崎駅を出発してものの10分で湾岸線に合流して今に至る。
ワタルさん曰く、(ミカンを積んだトラックが横転しない限り渋滞しない)という湾岸線は、それはもう本当に車が少ない。数十秒に一度あるかないかで対向車とすれ違う程度だ。走行車線を120キロ以上で走行しても、全く前を走る車が見えない。
ステアリングを握ってからの店長さんは、急に口数が減った。たまにぼそりと独り言のような短いセンテンスを口にするだけで、それも私に話しかけているという感じのものではない。
私の右手、つまり窓側に目をやると、夏の緑に色付いた急な崖が迫っている。この湾岸線とやらの高速道路は、山を貫いて作られたものなのだろうことが想像できる。
飛ぶように流れていく緑一色の景色が、たまに大面積の太陽光パネルの塊によって切り取られる。この太陽電池によって作られた電気は、一体何に使われているのだろうなんて考えながら、ふと運転席の方に視線を流す。静かで、そして優しそうな眼で、前方の遠くを見据えている店長さんの表情があった。
来月35才。そしておそらくは独身。どうしてこんな綺麗な人が、今も独身なのかと思う。結婚するしないなんて、その人の感性なのだろうけど。そんな只の好奇心が呼び水となり、次々に止めどない疑問を呼び込んでいく。
女性でありながら、どうして武術の、しかも主席師範となるまでその道に入り込んだのか。
そんな立場にありながら、どうして小さなマッサージ店を開いているのか。
武術の主席師範という彼女は、一体どれほど実際は強いのか。
強いということが、女として本当に幸せな事なのだろうか。
こんな好奇心と疑問を一緒くたに丸めると、つまり(整体シバヤマ店長にして武術道場の主席師範なる彼女が、一体なにものなのか?)という疑問に帰結する訳だ。
そして、そんな心の内なる問いは、自ずと自分に跳ね返ってくる。
一流とは言えないが4年生の大学を出た。総合商社に新卒で入社し、人並みの速度で係長試験に合格した。今年で入社8年目。雇用均等法の後押しもあり、数年後には課長職へのチャレンジも、決して非現実的な未来ではない。仕事シゴトと自分で自分を追い込んでいく日々の間に、好きになった男もいないではないが、生涯のパートナーと納得するには、微妙な感覚のずれがあった。
自分はいま幸せなのか?そして一体自分は何者?そんな思考の迷路への入り口を、絶妙のタイミングで多忙という日常が蓋をする。そしていつしか29才。
いま一度ステアリングを握る店長の横顔を見つめる。
「美波さん」
「んっ?」
店長のことを(美波さん)なんて馴れ馴れしい呼び方をしてしまったことに、自分でもひどく驚く。浅く振り返った彼女の顔は、この上なく優しそうだった。そしてもう一度、私は同じ呼び方をする。
「美波さん・・・いま・・・幸せですか?」
なんでそんな質問になったのか分からない。そんな自分でも意味不明の、私の問いに対する回答をする代わりに、彼女はもうひと転がりした笑顔を見せた。
天使のような笑顔だと、とても素直な気持ちで、私はそう思えた。




