この屋根の下に(8)
本章完結です。ありがとうございました。
8畳の和室。すでにしっかりと暖房が効いている。綺麗に整頓された部屋。隅々まで掃除が行き届いているようだ。
中央に並べて敷かれている2枚の敷布団は、最近干されたものなのか、薄く太陽の匂いがした。
部屋の隅に木製の学習机。何種類かの辞典が並んでいる。
やや小さめのタンスの上に、むかし人気のあったソフトビニール製の人形3体が座っていた。私も子供の頃、2体ほどは持っていたような記憶がある。面白いのは3体のうちの一体が、柔道着のようなものを着ていたことだ。何十種類もの着せ替え用の服がオプションとして販売されていたが、柔道着の類はなかったはずだ。手作りの着せ替え衣装なのかも知れない。
あの芝山美波が、幼少期に遊んだであろう玩具と、教材を並べて勉強したはずの学習机を、不思議な気持ちで私はいま眺めている。
メインディッシュは分厚いステーキだった。3人分のステーキには、醤油がベースと思われるソースがかけられていたが、美波さんの前に運ばれたものには、それがかかっていなかった。美波さんは、このお母さんが苦手だと言っていたが、こんなところはやっぱり実の親子なのだと思った。
「私はお風呂に入ってくるので、お菊ちゃんは先に休んでもらっていいですよ」
食事を終えた後の、美波さんの一言。
そうは言われたものの、先に布団に潜り込む気にはなれなかった。
この部屋に通されたのが、およそ30分前なので、そろそろ美波さんがお風呂から上がってきてもおかしくない時間だ。お布団の上に座るのは、少し行儀が悪い気がするし、畳の上で正座ってのも、堅苦しい気がする。しばし悩んだ私は、結局布団の脇に足を崩した状態で座り、美波さんが帰ってくるのを待ったのである。
この時、私は、ほんの小一時間ばかり前の実の親子の会話を思い出していた。
京子会長がメインディッシュ、すなわちそれはステーキだった訳であるが、このステーキが焼き上がって食卓に並ぶまでの時間、美波さんはよく喋った。小山氏に向けてである。
「たしかに強かったけど、技が単発だったよね。柔気道の技は、一技必殺を目指してる訳だから、それでいいんだけど、お父さんが戦う試合ではグローブを着けるじゃない?素手なら必殺の攻撃でも、それだけで相手が倒れるとも限らない。もっと技を連続した方がいいと思う」
はっとした。美波さんが小山氏のことを“お父さん”と初めて呼んだことに驚いたのだ。
美波さんの言葉が続く。
「あと、これはキコちゃん、お父さんも覚えてるよね。高校で同級生だった溝田紀子、柔道の。彼女から聞いたんだけど、マウスピースって使い慣れてないと、呼吸が難しいらしいから、試合までの間にできるだけ使って慣れといた方がいいと思う」
顔を真正面に向けて、小山氏は美波さんの言葉を聴いている。真剣に。微かにあごを引いて頷いたような仕草も確認できた。
生き生きとした表情で、さらに美波さんが続ける。
「リングって道場と比べて狭いじゃない。ロープとかあるし。押し込んで倒す技や引き込む技よりは、下に崩す技が有効じゃないかなって思うの。隅落とし系の・・・」
「うん、逆にロープで相手の動きを封じるってこともできるかもしれない」
「なによ、ちゃんと考えてるじゃない」
弾んでいる。親子の会話が弾んでいる。そのことが、私には何だか嬉しかった。
さらに熱を増していった親子の会話の最中、京子会長が現れた。焼きたてのステーキをお盆に乗せて。(おやおや)という表情で、会長が眼を細めた。
美波さんが少し照れくさそうに、視線を落としたのが印象的だった。
「おや、まだ起きてたんですか」
あまりにも襖が開く音が静かだったもので、そう声を掛けられるまで、美波さんが部屋に戻ってきたことに気付かなかった。
「あっ、お腹が一杯で、すぐに横になるのはどうかと思いまして」
我ながら上手く返せたと思う。
「はあ、そんなものですか。私は逆にお腹が一杯にならないと眠れない方ですけどね」
(食べてすぐに横になると牛になる)
そんな昔に聞いた母の教えも、美波さんには関係ないようだ。じつに羨ましい。いや、週に1,2度しか稽古しない私と、毎日道場に立つ美波さんとでは、運動量も基礎代謝もまるで比較にならないのだろう。
「はいはい、体が温もっている間に、布団に入りましょう。暖房のタイマーが切れると寒くなりますから。この部屋」
何の躊躇もなく灯りを消した美波さんが、布団に潜り込む。であれば、私も横になるしかできることがない。部屋の中は真っ暗で、もう美波さんの表情も覗えない。
「お菊ちゃん、今日は本当にありがとうございました」
いえ、こちらこそ、晩御飯まで頂いてしまって恐縮しています。逆に家族団らんのお邪魔になったりしなかったでしょうか。
「最近、よく考えることがあるんです」
はぁ、何でしょう?
「私にとって、お菊ちゃんって何なんだろうって」
何ですか?藪から棒に。美波さんにとって私は・・・柔気道の生徒であり、お店の方ではお客であり・・・そんな答えでいいのでしょうか?
「私達が出会ってから、それほど長い時間が経った訳ではありません。道場生の中には、もう付き合いが10年以上に及ぶ人達もたくさんいます」
まあ、それは、美波さんは24才の時から本部道場の主席師範でいらっしゃる訳で、さも有りなんって感じです。
「でも、何だか人生を左右しかねない分岐点で、いつも私の横にいてくれるのが、お菊ちゃんなんです」
あの~どういう意味でしょう?
「いま柔心会の会員がすごく増えています。私がテレビに出た影響なのでしょうが、それを唆したのは、他でもないお菊ちゃんです」
はい、身に覚えがあります。その節はご迷惑をお掛けしました。
「でも、あの時、お菊ちゃんが唆してくれていなければ、たぶんキコちゃんとまた連絡を取り合う関係になれたとは思いませんし、それどころか、まるで音信不通だった父と再会できたことにも、お菊ちゃんは一枚噛んでくれました」
ああ、初めて小山氏に声を掛けられたときは、正直ビビりました。しばらくは小山氏のことを心の中で“ダブチーおじさん”と呼んでました。
「お菊ちゃんって私にとって何なんだろう?そう考える度、いつも同じ結論に至って、私は安心して眠ることができます」
私は美波さんにとって何なんでしょう?逆に私にとっての美波さんとは・・・え~と・・・なかなか答えるに難しい。
「お菊ちゃんは、私の大切な友人です」
シンプルな、この上なくシンプルで、そして嬉しい一言。
「私には人を傷付ける技術以外に、何一つ取り柄がありません。そんな私でも、お菊ちゃんのような立派で素敵な人が傍にいてくれているなら、人として道を外していない。そう思うことができます」
そんな、大袈裟ですよ。美波さん。それに私が立派だなんて、とんでもない。私なんかよりはるかに美波さんの方が素敵というか・・・うまく言葉になりません。
「母の小言を聴きながら、親子そろって食事する。順番にお風呂に入って、温かいお布団に入る。たったそれだけのささやかな幸せを、ずっと私は望んでいました。今日、この屋根の下に、私の望んでいたものの全てが存在します。お菊ちゃんのお陰です。本当にありがとうございます」
美波さんが向こう側へ寝返りを打った気配がした。
少し闇に眼が慣れてきた私は、高い天井を眺めていた。
眠気が優しく私を誘ってきた。




