この屋根の下に(6)
4回目のワクチン。すごくしんどいです。
その回数は4回か5回か。美波さんが小山氏を投げた回数だ。かくも見事にと思える綺麗に決まった投げもあったし、どっちが投げたのか分からないような、やや崩れた技もあった。
その幾度、寝技の攻防へと移行し、そして今も決着には至らない。
美波さんが黒髪を振り乱し、額に大粒の汗を浮かべている。立ち上がった時、肩が大きく上下している。
小山氏の呼吸はさらに激しい。通勤電車の中で、こんな呼吸をしている人がいたら、次の停車駅で救急車を要請した方がいいかしら・・・って思える程に、息が上がっている。
「とんでもないことだよ。これは」
私の横で、そう囁くのは渉さん。
「うちの主席師範と、これだけ戦える人間がいるなんて。しかもそれが結構な年配の人ときてる。あり得ないよ。普通じゃない」
格闘技に詳しいって訳じゃないけど、美波さんが超の付く一流の武術家であることは、私にも分かる。なにせオリンピックメダリストをして(私の10倍強い)なのだ。そしてそんな美波さんが、いま汗まみれになるまで戦って、未だ決着つかずなのだ。確かにとんでもない。
「おじいさん、息が上がってるけど大丈夫?急に倒れてポックリってやめてよね。迷惑だから」
「息が上がってるのはお互い様」
「まあ、減らず口。何を突っ込んでやろうかしら、その口に」
こんな親子の口撃合戦の間にも、お互いの肉体を使った攻撃合戦は、まるで淀むことがない。
美波さんが打撃で攻める。小山氏が守る。偶に反撃する。そして投げ技から寝技へと移行する。
2人が向き合ってから、どれ程の時間が経ったのだろう。それを確認したくて、ちらりと掛け時計に視線を移す。たったそれだけの動作を起こすのに覚悟が必要だった。それほどに目が離せない攻防なのだ。
時刻は9時25分だった。ってことは、2人はすでに10分以上も戦っていることになる。
まだ30代の美波さんはともかく、60歳を超えている小山氏の体力が尋常じゃない。
渉さんの言う通り、とんでもないのだ。そんなことを考えていた正にその時だった。
「コラッ!いつまで親子でじゃれ合ってるか!!」
その一喝、最初は美波さんの声だと思った。美波さんの声そのものに聞こえたから。
その声が美波さんのものでないと分かるのは、声のした方向。それが入口付近から聞こえたこと。そして美波さんは、いまも道場の中央付近で実のお父さんと戦っている訳で・・・
道場を揺らすほどの声量に、戦っていた2人の動きが止まる。道場の入口に立っていたのは、160センチ足らずの、グレーの洋服に身を包んだ小柄な女性。年の頃は50代後半か、60歳に届いていても不思議ではない。
「か、会長」
ぼそりと渉さん。会長?何の会長?私には分からん。でも、ここ柔心会本部道場で美波さんを怒鳴りつけることができる人って一体?んっ、柔心会、会長、まさか・・・
「京子会長だよ。柔心会会長」
渉さんが教えてくれるまでもなく、私はそのことをもう理解できていた。
「あっ、え~~っと・・・なんで?」
あの芝山美波が弱っている。おどおどしている。こんな美波さん、見たことがない。
一方で小山氏の方はというと、息こそ弾んでいるものの、柔心会会長の視線を正面から受けて尚、堂々と立っている。あっ、この2人、たしか元夫婦のはずだ。
道場中央で戦っていた2人に関してはこんな塩梅で、その他道場生はもう何が何だかって感じだ。誰も声を上げたり、動いたりしない。
「京子会長に挨拶!」
そう声を張り上げたのは多嶋師範。道場生全員が、我に返ったように整列しようとする。みな相当に慌てているのか、何人かの道場生の体がぶつかり合った。
「いい、いい。今日はもうこんな時間だし。掃除もいいわ。みんな着替えて早く帰りなさい」
先の一喝の迫力が嘘のような優しい声色。やっぱり声の質が美波さんとそっくりだ。
柔心会会長が、ゆっくりと道場中央に歩んでいく。美波さんと小山氏は動かない。動かないが、美波さんにいつもの落ち着きがない。
そんな美波さんなんてまるで存在しないかのように、京子会長は小山氏の前に立った。
2人が見つめ合っていた時間は、ほんの数秒。
「場所をお借りしている」
先に言葉を発したのは小山氏の方だった。
「宿とかは、どうしてるの」
そんな元夫婦の会話を、道場生みなが立ち尽くしたままで聞いている。そんな道場生に対して、くるりと体の向きを変えた京子会長が一言。
「みんな、早く帰りなさい」
トーンは静かだったが、有無を言わせない迫力を含んでいた。何かから逃げるように皆が出口へと向かう。
「ありがとうございました。失礼します」
神棚に向かって頭を下げ、皆が退散していく。
「じゃ、私もこれで・・・」
「アンタは残るんだよ!」
一般道場生に紛れて出口方向に向かおうとした美波さんを、京子会長が一声で繋ぎ止める。
「いや、だって、整体の仕事があるし」
「アンタにあの店任せてから、ひと月でも黒字になった月があったか。そんなの仕事とは呼ばんわ!」
うわっ、美波さんが叱られている。とっても珍しいシーンに立ち合ってるのかも知れない。わたし。
「宿はどうしてるの?」
小山氏に対して、先般の質問をもう一度繰り返す会長。
「ビジネスホテルとか、ちょっとした民宿とか・・・」
ぼそりって感じで小山氏が答える。
「そんな出費も田舎の貧乏道場主には結構な痛手でしょう。こっちに出稽古に来る時には、うちに泊まりなさいな」
(泊りなさいな)なんて語尾が、ほんと美波さんの喋り方と似ている。声の質だけでなく。やっぱり親子だ。間違いなく。
「じゃあ、元夫婦のお邪魔もできないので、私はこれで・・・」
またまたそそくさと出口方向に再度向かおうとする美波さん。
「アンタも今日はうちに帰ってきなさい。汚いビルに住み付きよってからに、ドブネズミか、アンタは・・・ったく」
ここでふと気づくと、この実の親子3人以外には、私しか道場に残ってなかった。どうやら退散するタイミングを誤ってしまったようだ。それじゃあ、私もこれにてって、えっ?
ガシッと美波さんに袖を掴まれた。そして道場の隅っこに強引に連れていかれる。
「お菊ちゃん、明日はお仕事、お休みですよね」
囁くように、どこかすがるように、私に問う美波さん。
まあ、明日は土曜日ですし、初級幹部社員になってからは、休日出勤手当も付かないですし。あまり仕事に出る気はなかったですが。
「それでは相談があります。相談というより、切なお願いです」
はぁ、何でしょう。今すごく気まずい雰囲気なのですが。
「今日はうちの実家に一緒に泊まって下さい。お願いします」
何だかえらいものに巻き込まれてしまった予感がプンプンした。




