この屋根の下に(5)
今回もよろしくお願いします。
美波さんが先に動いた。そう見えたのは思い違いだったようで、美波さんが足を踏み出した時には、小山氏も始めに立っていた位置にはいなかった。どっちが先に動いたかは分からないが、いずれにせよ2人を隔てていた距離が、一瞬で縮まったのだ。すでに戦闘の間合い。
最初に私が認識できた技は、美波さんの左逆突き。小山氏の顔目掛けて。しかも拳で。
美波さんが拳を使って攻撃する姿を見るのは、この道場では初めてのことだ。
小山氏が顔を振って、これを躱す。その動きにゆとりの様なものはなかったが、危機一髪ってふうでもなかった。
躱されることが予め分かっていたかのように、さらに半歩美波さんが踏み込む。胸と胸とが触れ合うくらいの近距離。
小山氏の手が、美波さんの襟に向かう。そして掴む。
“ガクン”と膝を崩したのは小山氏の方。美波さんが下崩しを仕掛けたのだ。たぶん。
一瞬だけ姿勢が低くなった小山氏であるが、すぐに体勢を立て直した。立て直しつつ、後方に飛び、距離を作ろうとした小山氏の胴を、美波さんの左脚が追う。中段の足底蹴り。これが小山氏の着古された道着を擦った。
美波さんの下崩しから体勢を立て直すだけでも至難なのに、さらにその後の蹴りまで躱すなんて、やっぱりこのオジサンは普通じゃない。
(ほう)と言う表情になった美波さんの顔を、小山氏の指先が襲う。皆が“貫手”なんて呼んでる技だ。私なんかには、攻撃した側が突き指しそうだけど、鍛えられた指先は刃物のような武器になる・・・らしい。おっかなく、そして危険な小山氏の攻撃だったけど、余裕を持って、これを美波さんは躱した。躱してすぐさま右脚でのキック。これが小山氏の脇腹に吸い込まれる。当たる。
”ドンッ“という鈍い音。今日この乱取りで、美波さんは蹴りを多発している。本来の美波さんの戦い方とは、少し違う感じがする。
「私なんかの蹴りを喰らってどうする。相手は“スパーク”か“スマッシュ”か知らないけど、一流のキックの選手でしょ。私なんかより、もっと速い蹴りを出すよ」
この美波さんの叱咤で、私は思い出す。年末にあの高木から聞いた内容。
小山氏は今年の6月にリングに上がり、その対戦相手は、現役高校生の天才キックボクサーなのだ。そしてこの事を、私は美波さんに伝えている。(伝えて欲しい)と高木に言われていたから。
この段階に至って、いま目の前で行われている親子乱取りの意味合いが、私にも理解できてきた。これは6月の試合に向けた小山氏の出稽古なのだと。だから美波さんは蹴りを多用しているのだ。言ってみれば今日の美波さんは、仮想天才キックボクサー。
この乱取りの実現が、小山氏自身の申し入れなのか、それとも美波さんが小山氏を呼んだのか、それは私には知る由もない。
美波さんの蹴りに怯む様子も見せず、小山氏が踏み込む。最短で直線的な動き。これが速い。
美波さんが右手の掌で迎え撃つ。これは美波さんの得意技で、相手の出鼻をパチンと止めるのだ。これまで道場生の多くが、この技で顔を打たれるのを何度も見てきている。
美波さんの掌をかいくぐり、小山氏が加速する。そして右肩から美波さんにぶつかっていく。
先に山下さんを跪ずかせた“砕脾”と言う技だ。
(一番下の肋骨をブチ折るつもりで肩をぶつけなさい)
この技を私が習った時、美波さんにこう指導された。柔気道の技な中でも、相手に大怪我を負わせかねない危険な技の一つだ。この“砕脾”という技は。
この危険な技を、美波さんはひらりと体を開いて躱す。優雅ささえ感じる華麗な身のこなし。
小山氏から見て右側に動いた美波さんの頭部に、小山氏の右脚が、いつも間にか迫っていた。
これをさらに右後方に移動して美波さんは躱した。美波さんの鼻先と小山氏のつま先との距離は、ほんの僅かしかなかった。
「そうそう、思い出した。娘の顔を平気で蹴るクソ親父が相手だったんだって」
“クソ親父”というワードに反応し、小さなどよめきが道場内に起こる。
「父親の腕の靭帯を引きちぎる娘に言われたくない」
2人のこのやり取りで、皆もう気付いたことだろう。この2人が実の親子であるという事実を。渉さんも一瞬だけ驚いたような表情をしたものの、いまはどこか納得した顔をしている。
「恨みっこなしってことでいいのよね」
「もちろん」
小山氏の“もちろん”というセリフに被せるように、美波さん鋭い蹴りを放った。
両の腕でこれをガードする小山氏。小山氏は一歩も後方に下がらなかった。蹴り足を下ろすと同時に、美波さんはさらに踏み込んだ。2人の距離が無くなる。
ぐるんと小山氏の体が丸く宙に舞った。これぞ柔気道というような美波さんの見事な投げ技。
2人の体が重なって落ちる。小山氏が下。美波さんが上。小山氏の両手が美波さんの襟に絡んでいる。小山氏の肘辺りを掌で操作して腕を切り、美波さんが立ち上がる。
「娘に寝技を仕掛けるなんて、相変わらず変態なこと」
「そこにしか勝機はないだろうからね」
「あら、それは聞き捨てならない。寝技なら私に勝てるとでもお考えかしら」
「どうかな」
「試してみなさいな」
「ああ」
この時、私はある事実に気付く。これまで美波さんは、その戦いが苛烈になればなるほど、表情がなくなっていったものだ。そんな時、まるで空気の温度を下げるような冷たい迫力を美波さんは纏う。
そんな美波さんが、いま笑っているのだ。笑顔で戦う美波さんを、私はこれまで一度も見たことがなかった。そのことに気付き、そして私はとても驚いたのだ。
笑顔を浮かべて、美波さんが大きく踏み込んでいた。




