この屋根の下に(4)
明けましておめでとうございます。活動再開です。
(ぽんっ)と左肩を叩かれた。振り返ると、そこには中腰の姿勢になった渉さん。そうか、今日は渉さんも稽古に参加していたんだ。私の耳元で呟く。
「一体何者なんだよ、あのおっさん。あっさりとうちの黒帯2人を仕留めるなんて」
何者って、美波さんのお父さんなんですけど・・・言っていいのかな、この事実。
「それにあの主席師範の態度。過去に2人の間に何かあったとしか思えない」
そりゃあ色々あったことでしょう。だって実の親子だもの。
「稽古は続けていたようね。なかなかの動きだった。お年寄りにしては」
誉め言葉には違いないが、実に微妙な美波さんの表現。私と渉さんの視線が引き戻される。
今日の稽古始めに、私に黒帯を持って来てくれた多嶋師範が、いつの間にか立ち上がり、隅の方で体を解している。
見渡せば、多嶋師範だけではない。黒帯の数名が、思い思いの方法で、体を温めている。戦いに向けての準備運動ってところなのだろう。さっき美波さんが言ったように、本当に柔心会の黒帯連中が、寄って集かって60過ぎのおじさんを虐めるというのだろうか。いや、虐めると言う表現は如何なものか。黒帯2人が、あっという間に手玉に取られたのは柔心会の方なのだ。
腹部に打撃を受け、呼吸が乱れた山下さんは、すぐには立ち上がらなかった。正座になって腰の帯を解き始めた。その挙動の意味を察した細木さんも、同様に山下さんの横に座して帯を解いた。
「申し訳ありません。お返しします」
正座した2人が美波さんに黒い帯を差し出す。本当に黒帯を返上するのだろうか。私が黒帯を貰った日だと言うのに。
「いや、その必要はないわ。相手の力量を見誤った私が悪かった。まあ、このジジイが普通じゃないだけだけどね」
言葉自体は刺々(とげとげ)しいが、なんだろう、美波さんは弟子2人があっさり負けても、決して怒っている様子ではない。でも笑顔って訳でもない。表情からは、まるで何を思っているのか読み取れない。それでも、どちらかと言えば、どちらかと言えばだけど、むしろ喜んでいる気がする。全くの私の勘。あまり頼りにならない勘だけど。
「さて、どうしましょうかねぇ。何人かは、次は自分が・・・って感じだけど。3人連続でやられちゃうってのも問題だし。例え天地がひっくり返っても、自分ならこんなジジイには負けない。そんな人がいたら手を挙げてくれる?」
誰もすぐには手を挙げない。ここは柔心会本部道場。本部の猛者達をもってしても、絶対に勝てると言い切れない程の実力なのだ。美波さんのお父さんは。60歳を過ぎてなお。
「では、私が・・・」
相当の間を置いて、そう声を上げたのは、やはり多嶋師範。ここ本部道場の正規師範。年齢は40台前半。身長は180センチ弱でがっしりとした体躯。ここでは美波さんに次ぐ実力者であることは、道場生の皆が認めている。
ゆっくりと多嶋師範が、道場中央に歩んでくる。怖いほどに気合のこもった表情。
もし今から小山氏と多嶋師範が戦うことになれば、新旧師範対決という事になる。
美波さんと私以外、誰もそんな事は知らないだろうけど。
「う~~ん、もちろん多嶋さんが、こんなジジイに負けると思ってる訳じゃないけど、たった一人でこの柔心会本部に乗り込んできたジジイの度胸に敬意を表して、ここは私がやらせてもらうわ」
40人を超える道場生から小さなどよめきが起こる。私がやるって、美波さんが戦うんですか? 相手は実のお父さんですよ。
主席師範にそう言われては、気合十分だった多嶋師範も引き下がらざるを得ない。
「ちょっと休む?立て続けに2人相手したばかりだし」
「いや、問題ない」
「11年、いや、12年振りかしら。私達が戦うのって」
またも道場生からざわめきが起きる。
12年振り。美波さんが言っているのは、きっと主席師範の座をかけた師範同士の親子対決のことを言っているのだろう。そしてその戦いのあと、美波さんの家族はばらばらになったと、他でもない美波さん自身の口から以前私は聞いた。
「そんな古い話は、もう忘れた」
「年寄りはいいわよね。都合よく物忘れができるんだから。私はいまも忘れていない」
この時、美波さんの表情に、僅かな苦痛のようなものが浮かんだ。それはほんの一瞬で、たちまちに消えてなくなったが。
「始めよう」
「始めましょうか」
12年振りの親子対決が、目の前で始まろうとしていた。




