この屋根の下に(3)
たぶん今年最後の投稿です。
1年間ありがとうございました。
先に動いたのは小山氏の方だった。少し意外だった。
意外だと思う事も意外な気はする。だって小山氏の戦いを見るのは、当然の事だが、これが初めてなのだから。
小山氏の戦いは見たことがないが、美波さんが戦う姿は何度か観てきている。
タイの道場とパタヤ公園のリング。そして、ここ柔心会本部道場での乱取り。
どの戦いにおいても、美波さんから積極的に仕掛けていく姿はなかった。
たぶんその印象なのだろう。柔気道の達人は、まず相手に攻めさせるものだと。
(柔気道とは侵略術ではなく護身術です。だから後手なんです)
以前に美波さんから聞いた言葉は、いまも印象に残っている。
小山氏の距離の潰し方には、まるで躊躇も無駄もなかった。足運びは、細木さんに向けて最短距離。体を揺すったり、ガードを上げたりして、相手の攻撃を警戒するような様子もなかった。
「シッ!」
いよいよ二人の距離が蹴り技一個分まで近づいた時、細木さんが鋭い呼気と共に、前蹴りを出した。その蹴りに遠慮は感じなかった。少なくとも私が見た限りでは。
この細木さんの蹴りを、小山氏は僅かに体を開いて躱した。まるで前進の速度を落とすことなく。当然二人の間合いは詰まった。お互いの手技が届くほどに。
空手経験者である細木さんの手技が届く距離を、まるで小山氏は嫌がらなかった。むしろ自分からその距離に飛び込んできたように見えた。ならば次の展開としては当然・・・
細木さんの拳が、小山氏の頭部を襲った。そして当たった。防具なし、グローブなし。
“ゴッ”という骨と骨とがぶつかる音に、稽古で温まっていたはずの背中が冷たくなる。
“パタンッ”というまるで力みのようなものを感じない音だった。
“ゴッ”という身の毛がよだつ音の直後に私が聴いたのは、細木さんの背中が畳に付けられる、それほど大きくはない音だった。普通に畳に腰を下ろすだけでも、それくらいの音はする。
そんな程度の小さな音だった。2人の体が床の上に重なって、横たわっていた。
動きが止まっている。畳に背を付けた状態の細木さんが下。小山氏が細木さんに跨る形で上。小山氏の左手の指が、細木さんの首を捕えていた。
お互いを見る眼の光が強い。動きこそ止まったものの、二人は今も戦っている。
“ぐぃ”と小山氏の左手に力がこもる。細木さんの表情に苦悶が浮かぶ。
ゆっくり細木さんの手が小山氏の顔面に向けられたが、その手が顔に届くことはなかった。
小山氏の肩辺りを“ポン”と叩くと同時に、小山氏が手に込めていた力を抜いた。
肩を叩いたのは、細木さんの(参った)の合図だったようだ。
始めの合図から10秒足らずの時間で、細木さんと小山氏の戦いは決着した。
小山氏の頭部を捕えたはずの、細木さんの打撃はどうなったのだろう。
私には分からない。
「はい、次、山下さん」
小山氏の立ち上がるのも待たず、美波さんが山下さんを促した。
「オス!」
山下さんも、細木さんが立ち上がる前に、そう返答した。
細木さんが立ち上がり、道場の隅に下がるや、すぐに山下さんが小山氏の前に立った。
距離は先の細木さんよりも近い。蹴り一個分の間合い。山下さんの表情には、細木さんが垣間見せていた困惑はなかった。
両の腕を高く上げて、山下さんは構えた。そして気合一声。
いまでは多少私にも分かる。山下さんの構えは打撃を相手に加えるため、もしくは相手の打撃を防御するための構えだ。その構えが馴染んでいる。きっと山下さんにも打撃系格闘技の経験があるのだろうと、私は思った。
「始め!」
その美波さんの掛け声と同時か、むしろ山下さんの初動の方が僅かに早かった気がする。
一気に間合いを詰めて左右のパンチの連打。リズムが速い。イメージとしては昨年末に私が戦った西宮サークルのナガサキさんの動きに近い。でもこのパンチの連打が、小山氏に当たらない。始まるや一気に間合いを詰めた先の戦いとは対照的に、小山氏は素早く後ろに下がって距離を確保している。
真っすぐ下がる動きではない。左右の後方へジグザグに下がる。足運びが軽やかだ。
とても60才を超えた人の動きに見えない。
パンチが届かないとみるや、山下さんはキックを出した。攻撃と攻撃の連携が、実に滑らかだ。しかし、このキックも届かなかった。
その後、山下さんの火を噴くような攻撃は、およそ30秒にも及んだ。私の体内時計ではだけど。
その間、一度も小山氏は攻撃を出していない。両腕をだらりと下げた体勢で、足運びだけで山下さんの攻撃を防ぎ切った。そして二人の動きが止まった。
大きく両肩を上下させている山下さん。小山氏の息は、それほど乱れてはいない。
大きく息を吸い込み、前傾姿勢を強めた山下さんが、またも大きく踏み込んだ。
山下さんの前進に対して、小山氏は下がらなかった。逆に大きく、速く、山下さん向けて足を踏み出した。
(ゴブッ)って感じの音がした。一気に体を沈めながら踏み込んだ小山氏の肩が、山下さんの腹にぶつかったのだ。ちょうど胃袋の辺り。その衝撃で数歩後ろに下がった山下さんが、数舜の間をおいて、床に膝を付いた。
(ひゅん)と滑らかに空を裂いた小山氏の右拳が、低く位置していた山下さんの鼻先で止まった。
「そこまで。砕脾からの下段突き、イッポン」
小さく、低く、嫌なものを吐き出すような美波さんの声。
それは決して大きな声ではなかったが、静寂に包まれていた道場では、皆の耳にはっきり響くに十分だった。




