この屋根の下に(1)
新章突入です。よろしくお願いします。
「今年も怪我無く、病気なく、充実した一年にしましょう」
1月第一週の金曜日。年頭の稽古始め。我らが主席師範の挨拶は、まるで飾りのないシンプルなものだった。そのシンプルさが、なんとも美波さんらしいと思う。
「ああ、それから・・・お菊ちゃん・・・前へ」
えっ、わたし?何だろ。いきなり模範技の受けって訳じゃないですよね。まだ準備運動もしてないし。
多嶋師範が、(あっ)という顔をして、慌てて何かを美波さんに持ってくる。何やら筒のようは物と・・・帯かな?あれ。
訳も分からぬまま、私は美波さんの前に立つ。そんな私の困惑をよそに、美波さんが丸まっていた紙を広げる。大きく息を吸って、そして・・・
「菊元加奈殿 右の者、柔気道初段補を免許する。全日本柔気道連盟柔心会本部主席師範 芝山美波 はい」
美波さんが分厚い紙を私に手渡す。格式を感じさせる紙だ。そして墨で書かれた文字は、たぶん美波さんの直筆。相当な達筆。
「知ってる人もいると思うけど、このお菊ちゃんは、年末の西宮サークルさんとの対抗戦で、私達の代表として戦って、来年プロデビューする選手を相手に、見事一本勝ちしました。相当なプレッシャーだったと思うけど、それに打ち勝って、そして相手にも勝利した。十分、黒帯を締める資格があると認められるので、今回特別昇段です。はい、お菊ちゃん、これからも頑張って」
(頑張って)といいながら、するりと私の後ろに回った美波さん。えっ、何?
スルスルと器用に、私の締めていた茶帯を解いた美波さん。ちょっと、もし道着の下、何も着けていなかったらそうするつもりだったんですか。ティーシャツ着てるから、まあいいけど。
これまた器用に真新しい黒帯を、シュルシュルって感じで締めてくれる美波さん。
そして黒帯姿となった私。
帯の右端には、漢字で“菊元加奈”、左側は“柔気道連盟柔心会”って刺繍が、赤い糸で施されている。どっちが右でどっちが左か知らんけど。
「みんなにも見せたかった。凄い戦い振りでしたよ。相手に馬乗りになって、頭突きをガンガン落とすんですからね。相手のおっぱい掴んで振り回すし。その姿は野獣そのものでした」
うわっ、頭突きはいいが、おっぱいクローは内緒にして欲しかったです。てか、美波さんがおっぱい掴めって言ったんじゃないですか。
「本山さんや廣井さんは、こっそりお菊ちゃんを狙っていたようですが、決して怒らせないように。野獣が爆発しますよ。怒らせると怖いですよ~」
本山さんと廣井さんって、結構年配の道場生じゃないですか。道場内に私の隠れファンがいるって聞いたことがあるけど、この人達だったのか。でも、ないです。
あっ、本山さんと廣井さん、明らかに困っている。そんな顔されると、私も困る。でも、ないです。
「はい、それじゃあ練習始めましょうか。今日は体験入会の女子が2名いるので、お菊ちゃん、まずは受け身から指導してあげて下さい」
えぇ、私が体験者の指導ですか?私ごときが?
「受け身を一通り教えたら、明日からでも使えるような護身技を、一つ二つ教えてあげて下さいな」
明日からでも使える技ですか。(ごめんなさい)って謝る振りして、手の甲でキ〇タマをピシャリと跳ね上げるあの技とかですかね。確か技の名は、“ツリガネハジキ”でしたっけ?逆に引きませんかね。いきなりそんな技。
「菊元先生、よろしくお願いします」
道着姿がまだまだ様になっていない若い女性二人が、やや緊張の面持ちで一礼した。
いや、先生って立場でも、そんな柄でもないし。
いま自分が黒帯を締めている。そして先生と呼ばれている。とても不思議な感じだった。
美波さんの様子がおかしい。気のせいだと思って思えなくはない、そんな僅かな違和感だ。いつも通り、熱心に丁寧に、道場生を指導している。そこにあるのは、いつものと変わらない美波さんの姿ではある。いや、指導が熱心過ぎるのだ。いつにも増して。
何か私生活で悩みを抱えた会社員が、いつも以上に仕事に没頭して、悩みを棚に上げている。正にそんな感じに、私の目には映るのだ。
時刻は午後8時半を回った。年明け最初の稽古も、いよいよ終盤に差し掛かった頃だ。
そして、その人物は現われた。
道着姿。着古された白い道着。そして白帯。身長は170センチ足らず。道着姿だったので、初めは分からなかった。その人物が誰だか分かった瞬間、背中の中心に電気が流れたような気がした。
あの“ダブチーおじさん”。小山順一氏、つまり美波さんのお父さんだ。
練習生の動きが、一斉に止まる。
「来たか」
道場生の動きが止まり、一瞬の静寂が生じていたので、美波さんのぼそりと吐いた一言が、はっきりと耳に届いた。




