わたし、他流試合に出る(8)
ちょっと読みにくい作品になりました。反省してます。
私が道場から出てくるのを、ナガサキさんは待っていたようだ。
木の実を見つけたリスの如く、素早くこちらへ駆け寄ってくる。
この場でリベンジマッチを要求されるような感じ・・・ではなさそうだ。彼女がさっぱりした笑顔を浮かべているから。
「菊元さん、今日は本当にありがとうございました」
ぺこりと頭を下げる姿が初々しく、そしてあどけない。こんなにも背が低かったんだ~なんて思う。
え~と、(ありがとうございます)なんて言われても、どう反応、対応すればいいのだろう。え~~と・・・
「あの~~おっぱい、大丈夫ですか?」
いや、そこじゃないだろ。例えば、(とても強かったです)とか言ってあげるべきじゃないのか。でも、それじゃあ、(そんな貴方に勝った私って、もっと凄いでしょ)って裏になるような気がするし。
(すごいパンチとキックでした)
それは事実だけど、(それに耐えた私、偉いでしょ)って意味に取られかねないし。
勝者が敗者に掛ける言葉はないって言うけど、身をもってそれを実感することになるとは、30才を過ぎて、また新たな経験をさせてもらった。
「大丈夫じゃないです。ブラのフロントホック、弾け飛びました」
げっ、それは大変!って、もろに私のせいじゃないか。実行犯じゃないか。そうか、掌の中で“ブチッ”ってなったあの感覚は、ホックを引き千切った感触だったんだ。なんて謝ればいいんだろう。まるで言葉が浮かんでこない。
「それに、初めて人に胸触られました。傷つきました」
ぐぉ~~!!海より深くお詫び致します。謝らねば、すぐに謝らねば。
「え~~と、私もナガサキさんと同じ位の年の頃に、電車の中で痴漢にあって・・・その体験に比べれば、まだナガサキさんの初体験の方が、いくらかマシというか・・・全然大丈夫というか・・・」
オイ、お菊。お前は一体なにを言ってる。仮にも2部上場企業のマネージャーだろ、お前。もう少しコメント力を磨け!このバカタレが。
さて、この致命的状況を一気に挽回する名言や金言はないのだろうか。
真っすぐに私を見ていたナガサキさんの目尻が下がる。そして、小さく“プッ”と息を吐く。
「菊元さんって面白い人ですね」
いまのナガサキさんの顔、絶対わたしを馬鹿にした。蔑んだ。倍半分年の違う中坊に軽蔑にされた。
「ミク~~帰るぞ~~~」
西宮サークル赤シャツリーダーの透き通った声が、12月の冷たい夜気を貫通して轟く。
「本当にありがとうございました。とっても楽しかったです。では、失礼します」
深く深く、お辞儀をしたナガサキさん。そしてリスが木々を縫って飛ぶように走り去って行った。
楽しかった?いまナガサキさんはそう言った。戦っている最中、楽しいなんて感情は、私にはまるでなかった。それじゃあ、無駄でくだらない時間だったかと問われると、絶対そんな事は無いと思う。あとで白帯高校生に聞くと、私とナガサキさんの戦っていた時間は1分にも満たなかったらしい。試合時間の制限が2分だったので、2分以内だったということは分かっていたが、それでも僅か1分未満の時間だったなんて、思いもしなかった。
その時間は、なんて言うか、そう、濃密な時間だったのだ。これまで経験したことがない程の。それに比べれば、いかに自分がこれまで時間という概念を甘く捉えて生活していたかが、今はよく分かる。
(楽しかった)
1分にも満たないその濃密な時間は、もしかしたら本当に楽しかったのかも知れない。
私はそんなふうに感じ始めていた。
「菊元さん」
後方から聞こえたその声に私の背が震えたのは、12月の寒さだけが原因ではない。
期せずとも人を威圧する低音。聞き覚えのある声色。
あの人だ。何やら格闘技の興行に携わっているという、以前美波さんの前に頻繁に表れていたあの男だ。名前は確か・・・
「ご無沙汰しています。高木です」
そう、高木だ。美波さんを執拗にプロのリングに上げようとしていた男だ。振り返った私が見たのは、予想通り、黒っぽいスーツ姿の高木だった。どうして今日は私に?
「いいものを見せて頂きました。素晴らしい戦い振りだった」
多少は人数が減ってきたとは言え、それでも10人は超える見学者の一人として、私の試合を見ていたのだろう。
「あの、ご用件は」
私はいまこの高木という男を警戒している。体の強張りと声の固さがそのことを証明している。
「ご心配なく。菊元さんにリングに上がって欲しいなんて言う気はない。主席師範にもね。まだ今は・・・」
どうやらこれまでのスカウト目的とは、今日高木が現れた意味合いは違うようだ。じゃあ何だと言うのだろう。
「ただの報告ですよ。本当は主席師範に伝えたかったのですが、どうやらツチイ君と食事にでも行ってしまったようですね」
ツチイくん?ああ、赤シャツリーダーのことを“ツッチー”って美波さんは呼んでいたはずだ。
赤シャツリーダーとも面識があるのか、この男は。
「ツチイ君も有望な選手だった。若くしてあっさり現役を引退してしまったことは残念だったが、その後起した鞄屋が、よく繁盛していると聞いている。格闘技に携わるものとしては複雑だが、一個の人間の選択肢としては、それも有りだ」
ただでさえ得体の知れない男なのに、この男が声かけてきた理由が、未だ私には理解できていない。不気味な事この上ない。
「いけない。話がずれた。菊元さんもお忙しいだろうに、申し訳ない」
(いえ)
小さくそう返した私であるが、それでも気を許す気にはならない。
「6月です」
6月と一言だけ口にして、高木は一旦長い間を取った。私に何かを考えさせるための間なのだろう。でも6月とは一体?
「菊元さんは主席師範にとって、ただの一道場生ではなさそうですから。代りに菊元さんにお伝えしようかと思いましてね」
私がただの一道場生ではない?何をこの男は言っているのだろう。私と美波さんが特別な関係だとでも言うのだろうか。たまに美波さんの整体の店に客として通っている以外は、他の道場生とまるで変わらない・・・と思う。
「そんなことは、ないと思います」
短く小さく、私は高木の言葉を否定した。
このとき少しだけ高木の眼が笑ったように、私には見えた。
「今日の試合、開始早々の相手の猛攻。私が審判だったら、試合をストップしていたかも知れない。事実、ツチイ君もそんな顔をした。そんな顔をして主席師範の方をちらりと見た。一瞬だったが、間違いない」
もちろん、その時、ナガサキさんの猛攻を受けていた私が、そんな事を知る余地もない。
「その時の主席師範の目。目がはっきりと(その必要はない)と語っていた。よほどの信頼を菊元さんに抱いていないとできない目だった」
美波さんが私に信頼を置いてくれていた。それが本当の事なら、とても嬉しいことだが、まるで実感がない。
「そして、あの逆転勝利だ。師弟の深い信頼関係が掴み取った勝利。私にはそう思えた」
「あの、6月というのは?」
話題を変えたくて、私はそう切り返した。6月に何があるのか、そのことも気になった。
「そうそう、その話だった。年を取ると話が脱線していけない」
(脱線していけない)と口にしながらも、その脱線を反省している素振りはまるでない。
「来年の6月に興行を打ちます。その興行に、小山順一氏、つまり主席師範の御父上に出場してもらう事が決定しました。そのことを主席師範に伝えたくて、今日この場に来たのですよ。電話でもよかったんでしょうが、どうしても会って伝えたかった」
たぶん60才を越えている美波さんのお父さんがリングに上がる。まるで現実味が沸かない。どきんと胸が鳴る。
「それから、溝田紀子とステイシー・ロイスとの再戦も組まれた。このことも主席師範は喜んでくれるでしょう」
確かに溝田さんのリベンジマッチに関しては、自分でお金を出してまで美波さんは実現させようとした。でも御父上がリングに上がることを喜ぶかどうかは別の話だ。
「溝田紀子の再戦は、カードを組むのにそれほど苦労はなかった。少し嫌らしい言い方をすれば、彼女のネームバリューはまだまだ金になる。今後も金の成る木でいてもらうためには、この再戦で勝ってくれた方が、我々として具合がいい。その一方で小山氏の方、こちらは少々苦戦した」
溝田さんの話は分かる気がする。美波さんのお父さんに関して、少々苦戦したとはどういうことなのだろう。
「うちの人間にも、60を過ぎた老人をリングに上げてメリットがあるのか、そんな意見が少なくなかった。今の時代、60才を老人扱いするのはどうかと思うが、闘技者として見た場合、それは紛れもない事実だ。否定できない」
その通りだろう。60才を過ぎてバリバリ働いている社員も、会社にはいるが、会社勤めと格闘技の選手とでは、まるで話が違う。それは私にでも分かる。
「前にも話したかも知れないが、我々の前身は、“フォー・オール・マーシャルアーツ”、“全ての人達のための格闘技”、それが団体理念だ。団体理念だった。これを口実に押し通そうとしたんですが、自分でも相当に無理がある理屈だと思った。何とか、押し込むには押し込んだが、もし小山氏の試合が、見るに堪えない試合になったら、何らかの責任を、私は取らされるでしょう」
美波さんのお父さんを、そんなリスクを冒してでもリングに上げようとする高木の意図が何なのか、聞いてみたい気がしたが、それは質問として言葉にならなかった。
「今日の菊元さんの戦い振りを見て、少し興味が湧いてきました」
興味?まさか私に対しての興味?危険な匂いだ。すぐにでも退散せねば。
「無理やりカードをねじ込んだのは私だ。そんな私でも、小山氏の勝利までは、さすがに期待していない。いい試合になればいい。その程度の期待だ。その程度の期待だった」
期待だった?過去形であることに何か意味はあるのだろうか。高木の言葉が、ほんの数秒だけ途切れる。言葉と言葉にはさまる間、それがこの男には特有のものがある。
「公表の前に情報を漏らすのは、ルール違反なんですがね。今日の菊元さんの熱戦に興奮した私が、思わず口を滑らせてしまったってことでいい」
今から私はこの男から何を聞くことになるのか。何だかとても怖い。背中に寒気すら感じている。
「小山氏の相手はキックボクサーです。現役高校生のね」
父上の対戦相手はキックボクサー。それも若い。それが何だというのだろう。
「高校生と言ってもなめちゃいけない。プロデビュー以来14戦14勝。天才少年キックボクサーと呼ばれている。“Spark”、“閃光”なんてニックネームも定着しつつある逸材だ」
60才を過ぎて、そんな逸材と戦う。大変な恐怖だろう。それでもリングに上がろうとする父上の思いって一体何なのだろう。
「似ていると思いませんか?」
似ている?何が何に似ているのだろう。分からない。まるで。
「閃光の様なスピードを持つ若い才能と、スポーツとは一線を画す古流武術家との世代を超えた闘い」
スピード、若さ、スポーツではない・・・あっ、私とナガサキさんとの闘い。似ているというのは、そんな意味なのだろうか。
「小山氏の勝利、もしかしたら、あり得るのでは・・・そんな風に考え始めてます。今日の菊元さんの戦いがそう思わせてくれた。いずれにせよ、いいものを見せてもらった。お礼を言っておきます」
ずいぶんと深く、高木が頭を下げた。スーツ姿と相まって、その瞬間だけを見れば、紳士的なナイスミドルと人には映るだろう。
「楽しかったでしょう。では、私はこれで失礼する。お疲れだろうから、ゆっくり休んでください。お疲れ様」
それだけ言って背を向けたこの男の去り行く後ろ姿は、前回と同じく、清々しいまでに潔かった。
「ああ、チケットは準備します。溝田紀子と主席師範はご親友で、小山順一氏との関係は、実の親子だ。これ以上の関係者も他に居ますまい。では」
振り返りもせず、足も止めず、高木は言った。
私はしばらくその場から動けなかった。
(楽しかったでしょう)
この言葉の意味を、私は推し量りかねていた。でも、その通りかも知れないとも考えていた。




