ケンちゃん、お相撲さんを目指す(7)
お相撲さん編完結です。
次は『わたし、他流試合に出る』編です。
マッサージの話はどこへ?
すっくと立ちあがったケンちゃんの頭の位置が・・・何となく、いや、明らかに・・・
「どうですか、浅川君」
「はい、いつもより少し高い所から、風景を見てる感じがします。これは・・・驚きました」
ビックリ顔のケンちゃんが、眼を潤わせながら言う。
背が伸びた感動で、ケンちゃん、泣いちゃった?違うよね。痛かっただけだよね。
「背中や太ももの大きな筋肉を伸ばせば、普通の人でも2,3センチは背が伸びます。昔のお菊ちゃんのように、全身がゴリゴリに凝り固まっている人なら、一時的に5センチも伸びることがあります。加えて、浅川君は背骨の湾曲が大きい骨格なので、さらに伸びしろがありました」
背骨の湾曲?何ですか、それ?
「人間の背骨とは一直線ではありません。誰もの背骨は”S“字形状になっています。特に日本人はその湾曲が大きい民族です」
つまり、どういうことでしょう。
「浅川君の骨格にはたっぶり伸びしろがあると言うことです。当日の施術で4,5センチは身長を伸ばすことができると思います」
この美波さんの言葉に、ケンちゃんが肩を震わせる。
それじゃあ、新弟子審査を身長で落とされるってことはなくなるってことですね。
あっ、でも、当日施術をしてくれるとは、まだ言ってくれてない。
ここは私から頼むところなのだろうか。
「浅川君」
「はい」
「お相撲さんの世界の事は、私には分かりません。それでもとても厳しい世界であることは容易に想像できます」
「はい」
「加えて、浅川君には、始めから体が小さいというお相撲さんにとっては致命的なハンデがあります」
「心得ています」
「それでも、お相撲さんを目指すと言う決意は、今も変わりませんか?」
ここでケンちゃんが、返事に少し間を空ける。お相撲さんになることが厳しい現実であることを、改めて言葉で突き付けられ、少し臆してしまったのだろうか。いや、そんな軟なケンちゃんではないはずだ。
この私の期待通り、そのときケンちゃんの眼が光を宿した。
「はい、変わりません。僕は相撲取りを目指します。僕の体は小さいですが、今日芝山先生の技を受けて、たとえ体が小さくても、これだけのことが人にはできる可能性があるんだと驚きました。そして。絶対に関取になるんだという覚悟が、さらに強くなりました」
2人が固い目で見つめ合っている。美波さんと最初に向き合った時の、左右に泳ぐようなケンちゃんの眼のふらつきが、今はない
2秒、10秒。(ふっ)とその緊張を先に解いたのは美波さんの方だった。
「よろしい。それでは新弟子検査の当日、私が施術に出向きましょう」
ふぅと肩の荷が下りる感覚。今も固いままの表情のケンちゃんだが、その眼にははっきりと喜びが浮かんでいる。そしてふいに、“あっ”という顔に変わる。
「今日の代金はおいくらでしょうか。それと、帯を駄目にしてしまいました。それもお支払いしないと・・・」
美波さんのことだ。今日の代金のことなんて、まるで考えていなかっただろう。美波さんらしいと言えばそれまでだが、そんな感じで仕事として成り立つのか。ここは逆に、少しでもお金を要求してくれた方が、無茶なお願いをした私としても、気が楽になる気がする。
と、そのとき・・・
「ああ~~美波先生だ!」
「ホントだ!美波先生だ~~~」
道場の入り口付近から子供達数人分の声が聞こえた。3人、いや5人。小学生低学年くらいの子達。そんな朗らかな声を上げながらも、丁寧に履き物を揃えて、神棚に一礼する。
「美波センセ~~~」
道着姿の5人が、美波さんに飛び込むように駆け寄ってくる。駆け寄ってくる5人の後ろから、さらに高い声が届く。
「あ~、美波先生。こんにちは~~」
先の5人よりは少し背が高く、体も大きい3名の女の子。小学生高学年くらいか、若しくは中学校に上がっているか。
「はいはい、こんにちは」
子供達に囲まれながら、実に優しい声で美波さんが子供達に応える。
「主席師範!」
ひときわ驚きを含んだ青年の声が、三度入口方向から聞こえた。身長170センチ強のがっちりとした体格の青年。私よりはいくらか若いだろう。黒帯を締めている。
「あら、お疲れ。石元師範代」
帯が無くなって、前が開けた道着を子供たちに引っ張られながら、美波さんが言う。
「突然どうされたのですか?」
子供たちが無邪気に駆け寄ってきたのとは対照的に、この石元という師範代は何だか緊張してしまっているようだ。
「うん、たまには少年部の稽古にも顔を出そうと思ってね。事前に連絡も入れずにごめんね」
主席師範の“ごめん”と言う言葉に、石元さんはさらに緊張を強めた様子だ。
今も子供たちは美波さんの周りを囲んで、甘えるように開けた美波さんの道着を引っ張っている。その無邪気さは、緊張している石元さんとは実に対照的だ。この子達も、あと数年もしたら気付くのだろう。自分たちが無邪気に道着を引っ張っていた人物、柔心会の主席師範が、どれほどの人物であったのかを。
「浅川君」
振り向きもせず、美波さんがケンちゃんに声掛ける。
「はい」
ケンちゃんの返事は実に清々しい。何かを覚悟できた人間の声だ。
「施術のお金も、帯の弁償も必要ありません。この帯は大切に保管しておきます。浅川君が関取になった時、この帯を持ってお相撲さんの部屋に遊びに行きますので、この帯にサインしてください。それだけでいいです」
「そんな・・・ありがとうございます」
「それから、お相撲さんの作るちゃんこ鍋も、一度食べてみたいです。覚えておいてください」
「はい、ご馳走します。お約束します」
今日一番深く、それは深く、ケンちゃんが頭を下げた。いつまでも、いつまでも。




