店長芝山美波
マッサージ小説が書きたくて書いてみました。きっとエタります。
(山下ビルヂング)とゴシック調で石板に彫られた白抜きの太い文字が、いかにも時代を匂わせて、エントランスを潜った時、鼻腔に入り込んだカビ臭い淀んだ空気に、思わず眉を寄せた。
人気が感じられない寂れた4階建ての雑居ビル。空調の備えがないエレベータの上昇速度は、やけにゆっくりで、風もなく蒸し暑い夕刻、駅から20分以上歩いた私の体からは温い汗が吹き出し、衣服を背に貼り付かせていた。
歩いている間は、さほど気にならなかったその不快感は、立ち止まるや否や、一気に私の中で増大した。
3階の最奥の部屋。(整体・リラクゼーション)と記された長方形の白い看板は、慎ましいほどに小さかった。
端から多くを期待している訳ではない。藁にもすがる、一言で言えば、正にそんな心境だったのだ。
チャイムの備え付けはなく、ダークブラウンの木目調に塗装されたドアを小さくノックして、奥側へ押し開く。
室内から洩れ出てきた冷たい空気をまず頬で感じ、そして意外にもふわりと心地よい香の匂いを嗅いだ。ふと肩の力が抜ける感覚を抱いた。
「いらっしゃいませ」
大き過ぎず小さく過ぎない上品な女性の声が、部屋の奥から聞こえた。
すぐに現われたのは、濃い色合いのジーンズに黒いタンクトップ姿というラフないでたちの、小柄と言ってよい女性。年の頃は三十路半ばといったところだろうか。私よりはいくらか年上に思われる。いま流行っているというスキニーなジーンズが表すシルエットは、細身であるが十分に女性らしい。一か所に束ねた黒髪は、彼女の腰にまで達していたが、不潔さやだらしなさなどはまるで感じられなかった。
「あっ、すいません。予約していた菊元です」
「はい、菊元様、お待ちしておりました。暑い中どうも。どうぞ、奥の施術室へ」
促され、茶色を基調とした幾何学模様のカーテンを潜る。柑橘系の植物を連想させる心地よい香りが、より一層強くなる。香はどうやら、この部屋で焚かれているようだ。
施術室と呼ばれたそこは、決して広くない。3畳ほどのスペース中央に、大人一人がやっと横たわることのできる小さなベッドが置かれていた。
「今日はいかがされました?」
店員の女性の一人だと思っていたが、店内のどこにも彼女以外の気配はしない。
個人で細々と運営している小さな店なのかも知れない。そう考えるや、僅かな不安を感じたことは否めないが、ビルの外観を見た時に抱いた胡散臭さは、思いのほか清潔感のある室内の雰囲気に、もう希釈され始めていた。いずれにせよ、(やっぱり辞めます)というタイミングでもない。藁以上の期待をしてはいないのだ。
「もう肩こりが酷くて・・・特に右の首から背中にかけて。今は少し片頭痛もします」
今日の昼休みに予約の電話を入れた際、簡単に説明した自覚症状を、もう一度繰り返した。
「なるほど。では、ベッドにうつ伏せになって下さい。頭はこっちです」
もっと色々と細かく訊かれるかと思っていた問診は、たったそれだけのやり取りだった。
(頭はこっち)と言われたベッドの端には、顔を収める楕円形の穴が空いていた。
容易に交換のできる白い不織布のシートが乗っかっている。
「室温は暑くないですか?」
空調はしっかり効きすぎるほどに効いていたが、背中の汗はまだ引いておらず、シャツがベトリと今も張り付いている。
「暑くはないですが、少し歩いたもので汗をかいていると思います。ベッド湿っちゃうかもです。すいません」
本当に少し申し訳ない気持ちで、ベッドにうつ伏せになった。
「まだ6月だというのに、本当に今年の夏は暑いですよね」
優しそうな声でそう言った店員さんが、首筋に乗っていた私の髪をかき上げた。晒されたうなじに空調の冷気が纏わり、ひんやりとして心地よい。
(すぅ~)とうなじの部分の汗を、乾いた布で拭われる感触があった。ぴくりと体が反応しそうになる。
「すいません。本当に汗塗れて・・・」
もう一度、私は詫びの言葉を発したが、うつ伏せの状態だったため、小さなくぐもった声となった。
「いいですよ、どうせシーツも枕も替えますから」
店員さんはそう言いながら、露わになった私のうなじの部分を指で軽く抑えた。
首筋が感じるその圧力の面積から推測するに、きっと2本の指で押さえていると思われた。
その2本指が(すぅ~、すぅ~)と確認するように背骨に沿って下に降りてくる。
背中の真ん中辺りまで指が達した。服の上からとは言え、汗ばんだ背中を触られるのは、少し嫌だな~と思ってしまった。
頓着する様子もなく、指がお尻のすぐ上まで降りてきたあと、いったん私の体から離れた。
もう一度、首筋からお尻の上までを、背骨をなぞるように店員さんの指が下りてくる。
強すぎず弱すぎない一定のテンポと圧力だ。
その後、足の方向に、少し店員さんが立ち位置を変えた様子を感じた。
続けて店員さんは、私の両の踵を掌でベッドに抑えつけたようだ。(ぐぃ、ぐぃ、ぐぃ)と強めに3回ほど。
「すいません、一枚写真撮りますね」
全く意味は分からないが、(ぱちゃり)と店員さんの手にしたスマホが音を発した。
すぐにスマホをジーンズのポケットに押し込む気配がするや、今度は私の左足の人差し指を、店員さんは指で掴んだ。うつ伏せになっている私には、その挙動は全く伺えないが、人差し指に生じた圧迫は、他の動作は考えつかない。
(ぐぃ、ぐぃ)と少し力を込めて引っ張られる感触。
今日一日、仕事の間中ずっとパンプスを履いていた足だ。汗ばんだ背中どころではない。ストッキングのつま先は、きっと汗でべちゃべちゃで、もしかしたら悪臭すら漂わせているかも知れない。
よもや客に対して、そんなことを店員さんが指摘するとは思えないが、(一日靴を履いていたので、少し汚いかも)と自分から切り出した。
「気になさらなくても、大丈夫ですよ」
飽くまで涼やかな声で店員さんが返してくれる。そのやり取りの間に、摘まれている指は、人差し指から薬指に替っていた。
(ぎゅっ、ぎゅっ)とまずは2回。それでも薬指は開放されることはなく、今度はやや強めに、(ぐぃ~)と長く引っ張られた。連動して太もも辺りの筋肉が伸びて張っていく感触。
(ぐりっ、ぐりっ)と今度は左右に捻じられる。
この段に至って私は少し、この施術に疑問を抱く。
(肩こりが酷いって言ったのに、なんで足の指なのかしら?)
そんな私の心の不満に、何かが腹を立てた訳でもあるまい。しかし・・・
巨大なペンチが一気に私の薬指を押し潰した。もちろん、そんなことはあり得ない。でも、そんなイメージそのままの、とんでもなく大きく重い激痛が、左足薬指を起点にして、私の全身を対角線に貫いたのだった。
(いいぃ~~~、うぐぐぅぅ~~~、グゥ~~~)
声にならないうめき声が喉の奥で行き場を失う。
全身を捩らせるほどの痛みであったが、体全体が痺れてしまって全く言う事を聞いてくれない。頭蓋骨の右側の辺りが、ジンジンと音を立てて、熱い血の脈を打っている。
「は~い、痛かった、痛かったね。ごめんなさいね~」
体の自由が戻れば、振り返り文句の一つも口にしていたかも知れない私の心境を、絶妙に躱すように、店員さんは言った。
「でも、(痛いですよ~)なんて始めに言っちゃうと、力が入っちゃって余計に痛いし、効果も薄れるから。ほんと、ごめんなさいね~」
さっきまで、とても丁寧だった店員さんの口調が、これを機に、一気にフランクなものに変調した。そんな言い訳に似た言葉も、頭がジンジンとしていて、よく聞き取れない。
体全体、特に背面側がとんでもなく熱い。焼けた赤いニクロム線が、左足薬指から右頭頂部に向けて、一直線に走っているような感覚だ。その細い芯から、じわりと熱が体全体に伝搬してくる。あれ、何だか不思議とイタ気持ちいい?
「はい、もっかい、写真撮りますよ~」
またまたフランクな口調で店員さんが、スマホを取り出し、(ぱちゃり)。
「どうかな~、もう動けますか~」
そう口にしながら、今もうつ伏せ状態で呻いている私に、スマホの画面を差し出した店員さん。何とか穴に収まっていた顔を持ち上げて液晶をのぞき込む。痺れは収まりつつあるようだ。
「こっちが一回目の写真、でっ・・・これが二回目。分かります?」
(えっ?)
それは目を疑うほどの違いだった。
一回目に撮影された写真には確かに両の踵が写っている。写ってはいるがしかし、踵の位置が揃っていない。どうだろう、それこそ踵半分くらい左足の方が短いような気がする。
そして二枚目の写真の方は、一回目のずれが嘘のように、両踵の位置が揃っていたのだ。
「お客様、仕事でパソコン使われますよね。マウス、使ってます?」
「あっ、はい、使います」
「パソコンは、けっこう長時間?」
「まあ、デスクワークが主体なので・・・」
「もしかして、思いっきり、デスクの右側に離して置いてません?マウス。あるいは、キーボードが、めちゃくちゃ奥に置いてあるとか」
「あ、どうだろ。そうかも知れません」
いつも私は、パソコンの画面とキーボードの手前に、大きめのメモ帳を置いている。他の社員とのやり取りや電話の内容を書き留めるためのものだ。自ずと、マウスはかなりデスクの外側で操作する格好だ。キーボードもかなり手を伸ばした状態で叩くこととなる。
「うん、その姿勢って、とっても肩と背中に負担が掛かるんですよ。もしかしたら、それが肩こりの原因かも知れませんよ。これからは、もう少し机の真ん中で操作するようにした方がいいです。肩肘を張る姿勢って、いいことなんて何一つありません。じゃ、もう少し、筋肉を伸ばしときますね」
また薬指を摘まれた時、先の激痛が頭をよぎり、思わず身構えてしまった。そんな体の緊張が伝わったようだ。にこやかに笑いながら、店員さんが言う。
「大丈夫、大丈夫。もう痛くしないですから、安心して力抜いてください」
そう言われても、つい体が硬くなる。先ほど体中を駆け巡った電撃は、一体いつ以来だろうと思えるほどの激痛だったのだ。子供の頃、転んでひざをひどく擦りむいた大昔の記憶か、あるいは、実家のタンスに足の小指をしこたま打ち付けて足の爪を剥がした時か。
(くぃ、くぃ)と薬指が引っ張られる。強い力ではない。優しく緩く引っ張られる。
足の裏全体が、ぽっと熱を持つような感覚。おおっ、これは何とも心地よい。
(ぐりっ、ぐりっ)と左右に回転させられたあと、(ぎゅ~)と今度は少し強く引っ張られる。左足の薬指を始点に、ふくらはぎ、腰、背中の右側、そして右の後頭部へと張力が移動していく。
「は~~い、伸びる、伸び~る」
フランクな口調のまま、店員さんが言葉にした通りのイメージで、背中とお尻の筋肉が伸ばされるような感覚。不思議だ。人間の体で一番大きい筋肉であるはずの背中や腰の筋肉が、小さな足の薬指一本を介して、見事に解されていく。それどころか、体全体で対角線上に一番遠い位置にある右の後頭部に、まるでポンプで送られるように血が流れ込むのが分かる。
「今、薬指を引っ張ってるんですけど、分かります?」
「ぽい、ふぁかりまふ」
「人に因っては、人差し指を引っ張った方が効果あったりします。菊元さんの場合は、薬指の方がいいんです」
そんな説明のあと、店員さんの手が私の薬指を放した時、それまで浸っていたあまりの気持ちよさに、とても残念な気がした。
少し立ち位置を変えた店員さんが、たぶん二本の指で、私のうなじの辺りを押さえた。
血が廻ったのか、体全体がポカポカしているが、逆に汗はすっかり引いている。
初めにベッドに横たわった時と同じように、店員さんの指が、私の背骨をなぞっていく。
ゆっくりとお尻の手前まで降りてきた指が、もう一度、うなじから腰まで降りてくる。
数歩ほど移動して、両の踵を一度に抑える。
(ふ~~ん)、小さくそう口にしたように感じた。
「はい、これで肩こりはだいぶん楽になると思いますよ」
満足げに店員さんはそう言った。自信に溢れた口調だ。
(もう終わり?)そう思ってしまう。ベッドに横たわってから、まだ5分と時が経っていない。これまで色々なマッサージ店に通い、時には1時間以上も施術してもらうこともあった。それでも、気休め程度にしか効果がなかった頑固な肩こりなのだ。
素人の私にも、施術の技術の高さは確かに判った。それでも、こんな短時間の施術でいいのかと思ってしまう。
「はい、ここで店長よりお詫びがあります」
「はい?」
何のことだろう?そして店長とは一体?今ここには、私とこの店員さん以外の人間はいない。もしや、この女性が店長なのか。
「本当は受付のとき、ハーブティーをお出ししないといけなかったんですが、すっかり忘れていました。ごめんなさい、少し待って下さい」
いそいそと施術室を出て行った店員さん、じゃなく店長さんは、すぐに透明のグラスになみなみと注がれたハーブティーを持って来てくれた。よく冷えている。グラスそのものも、今しがたまで冷やされていたのだろう。
たっぷりと汗もかいた。私は一気に喉に流し込む。爽やかな香りが鼻から抜ける。これは美味しい。
「じゃあ、お詫びも兼ねてもう一つだけ、魔法掛けときましょうか」
魔法とは一体?確かに、これまでの施術も、まるで魔法かと思えるほどに効果がよく分かる。何だか期待感がある。
「今度は仰向けになって下さい」
促され、私は体をゆっくり起こす。
(えっ?)
首を持ち上げた瞬間、その軽さに驚いたのだ。首から先の頭の重さがまるで無くなってしまったような軽さ。懲りやストレスや、仕事や対人関係の悩みや、そんな一切合切が、きれいさっぱり流れてしまったような爽快感。
「楽になったでしょ、はい」
手渡させたのは小さな丸い黒縁の手鏡。これも意味が分からない。
「ちょっとご自分の顔を見て下さい」
言われるがまま、鏡に己の顔を映す。
「どうですか?」
いや、どうと問われても・・・
「まあ、綺麗!なんて、ご自分で思ったりしません?」
からからと店員さんが笑う。決して嫌味な笑いではない。つられて私も思わず笑顔になる。
「思ってません。自分の顔です。いつも通りの冴えない自分の顔です」
「まあ、ご謙遜。はい、じゃあ、仰向けに寝転がって下さい」
これまで私の顔がはまっていた楕円形の穴の部分に、これも清潔そうな白いカバーで包まれた枕が置かれた。私は枕に後頭部を下ろし、目を閉じる。
それにしても何とも落ち着く香の匂いだ。あれだけ痛い思いをしたばかりだというのに、何だか私はとてもリラックスできている。絶妙の距離感で接してくる店員さんの喋り口調に癒されているのかも知れない。
どこから取り出したのか、温められたタオルが、私の目の上に置かれたようだ。
熱いようで、決して熱すぎる訳ではない。
どっちも要はぎりぎりなのだ。
これ以上、香が強すぎると下品な空気になる。これ以上タオルが熱すぎると、肌が我慢できない。こうなると、まだ入店してから15分も経過していないこの店、店というより、この店員さんに対しての奇妙な信頼を抱けるようになる。
(ぐいっ)とあごの先端を指の第二関節で押し込まれたようだ。タオルが目隠しになっているので、それは飽くまで感覚による想像だ。
(ぐぃ、ぐぃ、ぐぃ)
あごと歯茎の中間辺りを狭い面積で圧迫される。
(ぐぃ、ぐぃ、ぐぃ)
圧迫が、歯茎の周りを移動して半周した。圧迫がちょうど鼻の下辺りに生じた時、若干の痛みを私は感じた。我慢できないほどの痛さではない。店員さんの指の位置が、しばらくその箇所で留まる。
「ここは、ジンチュウと言って、人間の顔の中で最大の急所です」
そう言いながら、ほんの少しだけ力を指先に加えられるや、体がびくりと反応するほど、鈍い痛みが顔中に広がった。でもそれはほんの一瞬で、すぐに心地よい、優しい圧迫に戻る。
「人体の急所と言うのは、優しくほぐせば活法になるし、強く突けば殺法になるんです。この人中でも、指の先でカツンって強くやれば、大の男でも蹲ります」
物騒な話をするものだと思い、生返事を返していると、店員さんの指は、眉間の辺りから頭頂部の方へと、縦にゆっくり移動を始めた。
「ここが大泉門。これも急所です。頭蓋骨に空いた穴ですね。生まれたばかりの赤ん坊なんか、ぴくぴく動いてますよね。ここ」
頭頂部の少し前側。くぃっと優しく押されると、確かに鈍い痛みが押された箇所を中心に広がる。円を描くように、店員さんの指が私の頭頂部に圧を掛けていく。
多少痛みが伴うが、圧を受けるたびに、じわりと暖かい血が流れるような気がする。
眉間から頭頂部にかけての指圧が2往復した後、また店員さんの指が、私の口回りをマッサージし始めた。指の関節を使って、さっきよりは幾分強く圧迫されているようだ。飽くまで一定のリズムと力加減。
「痛くないですか?」
「ハイヒョウフデス」
先般、(最大の急所)と説明を受けた鼻の下あたりで指の移動が止まり、ここでも小さく円を描くようなマッサージを施される。加えられている圧力は、さっきとそれ程変わらないはずなのに、今はそれほど痛みを感じない。私の感覚が鈍ってきたのだろうか。
口回り、ちょうど歯茎に沿うような感じで2周ほどマッサージされた。
最後に、これも人の急所だという、何とかという頭蓋骨の穴を指圧してもらった。
「はい、もう一度ご自分で見てみましょうか?」
またまた手鏡を渡される。
億劫に上半身を起こし、手鏡を受け取る。そこにはきっと、これまで喜んだことも無ければ、悲しむほど不細工でもない、見慣れた自分の顔が映るのだろうと思っていた。
「あれ?」
「何かいつもと違いますか?」
違うと言えば違う。(こんなものでしょ)と言われると、そんなもののような気もする。
それでも、しかし・・・、いや、変わっている。それは雰囲気レベルだが、それでも違っている。
「何だか、目が少し大きくなっているような気がします」
「うん、でも、目が大きくなったんじゃなくて、顔が小さくなったんですよ」
顔が小さくなった?そんな女にとって嬉しいことが、たった5分かそこらのマッサージで?いや、でも確かに・・・
「あの~~、嬉しすぎるんですけど・・・マッサージで小顔になるんですか?」
「単純に顔の筋肉を刺激して引き締めただけですよ。でもちゃんと手順があるんです。顔の筋肉は数が多くて、付き方が複雑ですから。肩こりもだいぶん良くなったと思います」
顔が小さく見えることの感動で、うっかり気にならなかったが、体を起こしてみてよく分かる。肩というか腕というか、とにかく体が軽い。
「じゃあ、今日はこんなところで。申し遅れました。シバヤマといいます。今後とも、よろしくお引き立てのほど、お願いします」
差し出された名刺を、私は丁寧に受け取る。仕事の癖で、律義に両手で受け取ってしまった。
『整体シバヤマ 店長 芝山美波』
ああ、やっぱりこの人が店長だったのか。どうりで施術が上手いはずだ。あれ、名刺の下側、氏名の下に記されている小さな文字・・・え~っと、
『全日本柔気道連盟柔心会主席師範』
主席師範?何だか大層な肩書が記載されてある。これは気になる。
「あの~、この柔心会というのは・・・」
「う~~ん、一言でいえば、古流武術・・・かな」
「古流武術?中国拳法みたいなものですか?」
「う~~ん、一般的に知られてるものの中では、合気道なんかがが、いちばん体術の系統として近いかも」
道理で・・・人の急所とか、詳しい訳だ。あっ、そうだ。そんなことより、お代。
「有難うございました。だいぶん、というより、これまでに無いくらい肩が楽になりました。でっ、まだお代払ってません、私」
「あれ、そうでしたっけ。いくら払って頂けます?」
そうでしたっけって、あなた店長でしょうに。それに、(いくら払って貰えます?)って客に聞かれても。
「たまに行くマッサージ店は、60分で4千円くらいです。それよりは、明らかに技術が凄いと思ったし・・・え~っと」
じゃあ5千円・・・と言われると、少しお高い気がする。施術自体の時間は、ものの15分程度なのだ。でもその効果は、きっとこれまで払ってきた4千円の価値を、遥かに上回る。
まあ3千円ってところが妥当かな。そんな風に思った矢先、代表さんが言った。
「じゃあ、2千円でどうですか?」
2千円。これは安い。いや、安すぎる。
「ちょっと、それは・・・安すぎませんか?」
もちろん安いに越したことはないのだが。素直に2千円だけを支払う方が、決して高給取りではない独身一人暮らしの身の上では、きっと正解なのだろう。それでも、この爽快さを感じるほどの体の軽さ。感謝の気持ちは示しておきたい。その気持ちの表現とは、きっと代金なのだ。
「いいですよ。これからもリピートして欲しいですし。でもあんまり頻繁に来られちゃうと、自分の施術に効果がないのかしらって思っちゃうかも・・・まあ、今後とも、適度な間隔で、よろしくお願いします」
店員さん、じゃなくて店長さんが、深々と頭を下げた。たったそれだけの動作に、何やら気品が感じられる。
「じゃあ、お言葉に甘えて、2千円で」
財布の入っているバッグを取ろうと、ベッドから立ち上がる。
(あれっ?)
立ち上がった自分の目線が、やけに高い。こんなに店員さん、じゃなくて、代表の芝山さん、小柄だったっけ?
にこりとほほ笑んだ店長さんが言う。
「気付きました?4センチくらいは、お客様、背が伸びてますよ。まあ、一時的なものです。明日の夕方には、元に戻ってます。残念ながら」
顔が小さくなって、身長も伸びる。肩や首は、これまでの辛さが何だったのだろうと思うくらいに軽い。魔法だ、魔法以外のなんでもない。
整体師にして、古流柔術主席師範。
なんだかよく得体が知れないが、それでもチャーミングで、自分よりは少し年上であろう美波さんとの出会いと施術は、それはそれは、とても衝撃的だった。