66話 血の謁見
血の海が広がっていた。
少し前までは一族たちが流した血によって広がった海だった。
それがいまでは魔竜たちの血による海が新しく生じていた。
呻き声はもう聞こえない。
鼻を押さえたくなるようなひどい臭いが立ちこめていた。
臭いのもとが、海の上に浮かぶ臓物であることは明らかだった。
その臓物は魔竜のもの。その中には一族たちが詰まっているのだろうが、はじめの方に喰われた者たちはすでに消化されていることだろう。
竜の消化液は強力だと聞いたことがある。
竜という存在自体が強力であるのだから、その胃の中をきれいにする、獲物を吸収するための消化液が強力だというのも頷けなくはない。
あくまでも、ラモン翁たちが獲物でなければの話ではあるが。
一族たちはもう誰も生き残っていない。
ラモン翁を残して、全員が食い殺されている。
食い殺された中には、兄と弟、そしてラモン翁の妻も含まれている。
不思議と涙は出てこなかった。
あまりにも現実離れしすぎた光景に、脳が麻痺しているのだろうか。
兄弟と妻が食い殺されたことに対してではない。
一族を悉く食い殺した魔竜どもを、あっさりと討ち滅ぼした女性が、場違いなほどに美しい白い女性の姿に、ラモン翁の脳は麻痺してしまっていた。
しかも女性は魔竜たちの返り血を浴びることなく、その純白の体を汚すことなく、魔竜たちを全滅させたのだ。
埒外の存在。
いや、理外の存在と言った方がいいのだろうか。
麻痺した脳で、ラモン翁は取り留めもないことを考えていた。
だが、それもすぐに終わる。
「さて、と」
最後に残った巨竜、弟と妻を食い殺した竜に女性は背を向けた。
巨竜はすでに息絶えていた。
どれほど生命力に優れていようとも、脳天から左右に別たれれば、さすがに生きているはずもない。
魔竜たちは幼竜を除くと、ほぼすべてが左右に別たれて死骸となっていた。
幼竜たちだったものは、すべて纏めてひとつの丸い肉塊となってしまっている。
一族たちが生きながら喰われていく様も酸鼻極まるものだったが、魔竜たちの最期もまた酸鼻極まるものとなっている。
因果応報という言葉もあるが、それを口にするにはあまりにも惨たらしくはある。
魔竜たちにとってみれば、降って湧いたような幸運と不幸が同時に訪れたようなものだ。
幸運がラモン翁たちという獲物を大量に得られたこと。
不幸は、獲物を堪能していたら一族すべてが殺されたということ。
幸運と不幸は表裏一体。
ひとつの視点で言えば幸運でも、別の視点から見れば不幸と言えるからだ。
だが、これはあまりにも落差が激しすぎる。
とはいえ、ラモン翁にしてみれば、九死に一生を得た状況だった。
第三者の視点から言えば、魔竜たちもかわいそうなものではある。
だが、当事者の視点から言えば、いい気味とも言えなくはない。
そう、言えなくはないのだが、魔竜たちの最期はあまりにも惨状すぎた。
それこそ、憎い仇であるはずなのに、同情心さえ芽生えるほどにだ。
まるで圧倒的格上、いや、生物という括り時点で別格の存在の戯れに巻きこまれてしまったかのよう。
それこそ運悪く事故に巻きこまれてしまったようである。
ゆえに、同情してしまう。
だが、その同情心も潰えた。
巨竜の死骸に背を向けて、女性がラモン翁へと振りかえったからである。
女性が見つめるのはラモン翁のみ。
普段であれば、目の前の女性のような美女に見つめられればラモン翁も悪い気はしない。
それどころか、妻がそばにいても口説きに走ったかもしれない。
だが、目の前の美女は理外の存在だ。
ラモン翁の常識というものさしでは計りきれない、理の外にいる存在だった。
そんな存在が絶世の美女の姿をしていたところで、男としての本能が顔を覗かせはしない。
むしろ、別の、生存本能がけたたましく警報を打ち鳴らしていた。
逃げろ、と。
ラモン翁の生存本能が叫ぶ。
だが、すぐに理性が叫び返す。
あの魔竜どもを瞬く間に壊滅させた化け物じみた存在からどうやって逃げろと言うのか、と。
それでも警報は鳴り響き、そのたびに理性が呼応する。
本能と理性がお互いを否定し合っていた、そのとき。
「あら、おじいさん。危ないわよ?」
「……は?」
女性がいつのまにか目の前にいたのだ。
目の前にいて、その真っ白な腕がラモン翁の頭上へとまっすぐに伸ばされていた。
その腕から先を辿ると、中型の魔竜がいた。
正確には魔竜だったものがいた。
女性の指先が魔竜の喉元にあった逆鱗を貫いていたのだ。
逆鱗を貫かれた魔竜は、もう息絶えていた。
女性は手を水平に振るった。同時に、魔竜の首が宙を舞った。
首が宙を舞うと、首を失った胴体から夥しいほどの血が降りそそいだ。
ラモン翁は頭からその血を浴びていく。
だが、当の女性には血を浴びることはなかった。
見えないなにかによって弾かれていくかのように、血は女性の体に触れることはなかった。
そのなにかがなんであるのかを、ラモン翁は導き出していた。
「……結界」
「正解。亀の甲より年の功だったかしら? ふふふ、おじいさんはまさにそれね」
くすくすと女性は嗤っている。
美女の笑顔を見て、心擽られない男などいるわけがないが、ラモン翁は女性の笑顔を見ても心を擽られることはなかった。
むしろ、捕食者が牙を剥いているように感じられた。
だが、どういうわけか恐怖はなかった。
あまりにも格上すぎる捕食者を前にしたからなのだろうか。
格上すぎる捕食者を前にして、かえって恐怖心が麻痺しているのかもしれない。
脳の麻痺の次は、恐怖心か。
ラモン翁は血を浴びながら、力なく笑っていた。
この捕食者たる女性が、なぜ自分を助けたのかはわからない。
だが、女性がその気になれば、魔竜たちのように殺されることは目に見えていた。
武闘派でならしていた一族の者たちが、あっさりと魔竜たちには殺されてしまった。その魔竜を瞬く間に殺し尽くした女性にとって、ラモン翁を殺すことなど造作もない。
それこそ息を吹きかけただけでも殺すことができるのではないかとさえ、ラモン翁は思えていた。
最期が美女の息によるもの、というのは前代未聞ではあるが、それはそれで悪くはない最期かもしれない。
少なくとも魔竜どもの餌になるよりかは、天上の美を体現するような美女の息に包まれる方がはるかにましだろう。
ラモン翁は自分の最期を受け入れ、そのときを待っていた。
だが、待てども待てども女性はラモン翁を殺そうとはしなかった。
すでに背後の魔竜の血は止まっていた。
正確に言えば、魔竜の体が地に伏したことで、降りそそがれていた血は、地面を汚すだけになっていた。
ラモン翁に降りそそいでいたのは、ほんのわずかな間だけ。
だが、中型とはいえ、ラモン翁よりもはるかに巨大な体躯を誇った魔竜から迸った血は、ラモン翁の全身を血で染め上げるには十分すぎた。
血に汚れた体でラモン翁が女性を見上げると、女性はにこりと笑った。
初めて見る笑顔だった。
その笑顔を見ても、ラモン翁の胸はときめくことはなかった。
恐怖心どころか、感情さえも麻痺しているようだった。
「ねぇ、おじいさん。お名前は?」
「ラモン、と申します」
自然と敬語でラモン翁は返していた。「水の妖狐の里」特有の訛りはあるものの、里特有の方言ではなく、共通語での敬語で返事をしていた。
女性は「そう」と頷くと、笑顔を浮かべたまま言った。
「私の名前はスカイディア。知っている?」
「スカイディア。……っ! まさか、彼の」
「ええ、そのスカイディアよ。主神エルドの娘、女神スカイディア。それが私なの」
「よろしくね」と女性ことスカイディアは笑う。その言動に打ちのめされながら、ラモン翁は恭順の意を示すようにその場に平伏した。




