65話 悪夢と邪神
悲鳴が聞こえた。
ひとつだけじゃなく、無数に聞こえていた。
男も女も関係なく、悲鳴は次々にあがっていた。その声はどれもこれもひどく嗄れたものだった。
悲鳴は何度も何度もあがっていたが、次第に数を少なくしていった。
悲鳴の代わりに響くのは、咀嚼音だった。
ぐちゃぐちゃとすり潰すような音が聞こえるたびに、悲鳴は減っていく。
すぐそばにいたはずの妻の声はもう聞こえない。
すぐそばにいたのは、いや、すぐそばにあるのは胸から上を失した肉塊だった。
肉塊の前には、一頭の魔竜がいた。
大きな顎を何度も動かして咀嚼していた。
牙と牙の間には皺だらけの腕がだらんとぶら下がっていた。
いや、腕だけではなく、腕の持ち主の上半身があった。
だが、その上半身は牙の間に残った腕だけを残して、魔竜の腹の中だ。
腹の中に入ったのは、妻だけではなく、そばに控えていた弟もいた。
全員が上半身を喰われ、地面に残るのは血溜まりに突っ伏す下半身だけだった。
その下半身を魔竜はおもむろに咥えると、首を動かしてぶんと放り投げたのだ。
放り投げた先には、魔竜たちの子供なのだろうか、幼竜たちが群れていた。
その幼竜たちの口元は紅く染まっていた。よくみれば、複数の幼竜たちでひとりを啄んでいたようだ。
「……兄上」
甥だったクオンの父である長兄の直下の次兄。比較的穏やかだった次兄の元に、倒れこんだ次兄に幼竜たちは群がり、その体を啄んでいた。
つい先ほどまでは金切り音のような、金属がひしゃげたような声が聞こえていたが、その声の出所はどうやら次兄だったようだ。
聞こえていた声はもう聞こえない。次兄は血溜まりに沈んだまま、動かないでいる。
よく見れば、幼い竜の一匹が、次兄に群がっていたうちの一匹が眼球を咥えていた。それが誰のものなのかは考えるまでもない。
酸鼻極まる光景だった。
だが、それは目の前だけではない。
視線を逸らせば、別のところでは木の上で、幹にしがみついた態勢で黒焦げとなった死骸があった。
その死骸はいくつも連なっており、まるで串焼きのようだった。
ただ、焼かれたのは鶏でも豚でも牛でもない。同じ里長の一族だった者たちだ。
黒焦げとなった死骸を中型くらいの魔竜たちが群がり、美味そうに平らげている。
別のところでは、大きな魔竜にのし掛かられて身動きが取れないでいるところに、小型の魔竜たちによって少しずつ体積を失っていく者もいた。
誰も彼も悲鳴を上げていた。
でも、その悲鳴はもう聞こえない。
全員が全員食い殺されていく。
口元を押さえながら、ラモン翁はそれをじっと見つめていた。
あまりにも現実離れしすぎた光景だった。
もし、昨日の自分と話すことができたとして、酸鼻極まる光景を説明したとしても、「作り話にするなら、もっとましな話をしろ」と言われることになる。
そう思ってしまうほどに、ラモン翁の見た光景はあまりにも、あまりにもラモン翁の知る当たり前からはかけ離れていた。
それこそ、悪い夢を見ているのではないかと思えるほどに。
いいや、悪い夢であってほしい、と願ってしまうほどに。
だが、その悪夢だと願う光景は現実だった。
ラモン翁たちが潜んでいた藪。身を隠していた藪に巨大な魔竜の顎が迫ったのだ。
妻と弟はその顎に恐怖し、藪から飛び出してしまった。
飛び出してすぐ、ふたりの体は上半身を失い、下半身だけで地面に突っ伏すことになった。
その下半身もすでに幼竜たちの餌食になっている。先に食事にされた次兄のように。
ありえない。
何度そう思ったのかもわからない。
だが、どれほど、「ありえない」と心の中で叫んだところで現実はなにも変わらない。
巨大な竜はラモン翁には気付いていないようだった。
魔物寄せの刻印を刻みつけられたとはいえ、周囲には虫の息となった一族たちがまだいる。
その血の臭いと魔力によって、巨竜の感知能力が鈍ってしまっているのだろう。
だが、それも藪から飛び出せばすぐに勘付かれてしまうことであろう。
藪の外が地獄であることには変わりない。
だが、藪の中と言えど、いつまでも安全地帯というわけでもない。
いつ他の竜に気付かれるかわかったものではなかった。
早く、ここから逃げだしたい。
だが、どこに逃げればいいのか。
巨竜が離れた隙に、次の藪へと向かえばいいのだろう。
が、待っている間に、まだ生きている者たちが死んでしまう可能性は否定しきれない。
すでに虫の息になっているのだから、数秒後には死んでいてもおかしくはない。
次々に死んでいけば、最後に残るのはどうにか藪の中にと逃げ込めた自分となる。
そうなれば、もう逃げることはできないだろう。
魔竜たちの数は多い。
最初に迎撃に出た者たちもいたが、その者たちはあっという間に死んだ。
なにせ魔竜たちは、雷の魔竜だった。水と雷では相性は最悪と言っていい。
相性が最悪であるうえに、相手は魔竜だった。
迎撃に出たのは腕自慢ばかりだったが、その腕自慢はあっさりと死に絶えた。
腕自慢がいなくなった結果が、この惨状だった。
血の海が次々に広がっていく。
海の中には食い残された部位が転がっている。
腸もあれば、眼球もあるし、脳漿の一部だって転がっていた。
地獄という言葉は知っていた。
だが、地獄がどれほどものなのかはわからなかったし、想像もできなかった。
想像しえなかった地獄が、目の前に顕現していた。
嗚咽が出そうになる。
それでもどうにか口元を抑え込む。
せめて。せめて遠くに、少しでも遠くに逃げたい。
いや、どうにか生き残りたい。
生き残れるのであれば、神だろうと悪魔だろうと、誰でもいい。
手を貸して欲しい。
いや、助けて欲しい。
そのためならなんでもする。
なにを差し出してもいい。
だから。
だから、どうか助けてくれ、と。
ラモン翁は心の中で叫んだ。
だが、どれほど叫んでも助けはない。
もはや悲鳴はなく、小さな呻きだけが聞こえる。
その呻きもひとつ、またひとつと消えていく。
次は自分なのか。
それともその次なのか。
汗が無数に滴り落ちる中、藪の外にいる巨竜と目があった。
目があったと思っただけなのかもしれない。
だが、そう思ったときにはラモン翁は、藪から飛び出していた。
妻と弟のものだった血の海を越えて、より遠くへと向かって駆けていく。
だが、駆けるたびに頭上に影が差した。
影は次々に増えていく。
それがなんであるのかを確認する余裕などないし、するまでもない。
徐々に死へ続くカウントが刻まれていく。
いつゼロになるかもわからない。
それとも次の瞬間にゼロになるのか。
わからない。
なにもわからないが、それでもラモン翁は必死に地面を駆けた。
だが、それも目の前に中型の魔竜が降り立ったことで終わりを告げた。
魔竜の口が開き、雷が揺れ動く。
「ぁ」
小さな声が漏れる。
その声とともに雷が放たれた。
終わった、と。
ラモン翁は思った。
一族の中で誰よりも生き残りはしたものの、これで終わりだと。
そう直感した。
なぜ自分がと思った。
どうして自分たちがこんな目に遭うのだと。
迫り来る死の瞬間に怯えながら、ラモン翁は不条理を心の中で叫んだ。そのとき。
「不条理、ねぇ? 私の目には自業自得に見えるけれど、いいわ。その傲慢さは実に好ましい。助けてあげるわ。おじいさん」
雷が目の前でふたつに裂けた。いや、雷だけではなく、雷を放った魔竜ごとふたつに裂けたのだ。
どすんという音とともに倒れ臥す魔竜。ラモン翁は呆然とその光景を眺めていた。そこにふわりとひとりの女性が降り立ったのだ。
「初めまして、妖狐族のおじいさん」
女性はカーテンシーを行った。その所作は見事だったが、それ以上にその姿にラモン翁は目を奪われた。
その女性はあまりにも美しかった。長い銀髪と炎のような紅い瞳をした美女。
だが、その口元に浮かぶのは酷薄な笑みだった。
その笑みを浮かべながら女性は言う。
「さぁ、弱い者虐めをした子たちは、みぃんな死んでしまいましょうねぇ~?」
女性は嗤う。
その笑みは悪魔をも凌駕していた。それこそ。そう、それこそ邪悪なる神のようだとラモン翁は思った。
ラモン翁に邪神扱いされた女性は、そのことに気づくことなく魔竜たちを討ち滅ぼしていく。
その様をラモン翁はぼんやりと見つめていた。




